斯波がピアノを弾くのは珍しいことだった。
萌香が風呂から上がり、翔の身体を拭いてやっていると部屋からかすかにピアノの音が聞こえた。
もの悲しくて
少し温かい
どこかで聴いたことがあるようなその旋律。
翔に服を着せて彼を抱きあげてその部屋に入る。
「・・・・シューベルトのセレナーデだよ、」
斯波は萌香が来たことを気配で察してそう言った。
「え・・・」
「津村さんが。 萌のお母さんとの思い出の曲だから・・ぜひ真尋に弾いてもらいたいって言ってたらしいよ・・、」
不思議に聴いているだけで
胸が苦しくなるような切なさを覚える。
この曲に楽しかったころの思い出がつまっている
少年と少女の姿が思い浮かぶ。
幸せなことなんかひとつもない人だと思っていた。
だけど。
間違いなくあの人と愛し合っていたころの少女だった母は
幸せだったに違いないのだ。
「クラシック事業本部長の斯波です。 ・・・萌香の夫です。 初めまして・・・よろしくお願いします。」
斯波が津村に会ったのはそれから1週間後のことだった。
「・・『椿屋』の津村です。 ・・・いろいろご迷惑をおかけいたしました、」
津村はいつものように低姿勢で深々と斯波にお辞儀をした。
「ぼくは。 今回の津村社長からの仕事の依頼を頂いて。 その責任者としてお話をさせていただきます。・・・プライベートなことは・・・、ぼくから何も言うことではないので、」
斯波は穏やかにそう言った。
彼との最初の打ち合わせを赤坂にあるノースキャピタルのラウンジに決めたのは理由があった。
萌香のことは全く話題に出すことなく、斯波は仕事の話を進めた。
志藤の言うとおり、大店の主人とは思えないほど
穏やかで紳士の印象で
萌香の品ある雰囲気はやはり彼の血を受け継いでいるのではないか、と少しだけ考えてしまった。
「あれ? 翔くん?」
真太郎が久しぶりに早めに帰宅すると、リビングで南が翔を抱っこしていた。
「あ、おかえり~~。 今晩ね、萌ちゃんと斯波ちゃんが大事な用事があるからあたしが預かることになったの。」
「仕事?」
「・・うん、まあ。 そういうことみたい。」
南は萌香本人からこれまでのいきさつを聞かされて
彼女に何とか協力をしたくて
この日は翔を預かった。
「では。 またこちらからご連絡をします、」
斯波が資料をしまい始めた時、ふっと顔を上げた津村は萌香がすぐそこまでやって来ていたことに気づく。
「あ・・・」
そしてそのあとにひっそりとついてきた女性に目をやった。
津村はふらりと立ち上がった。
女性は勇気を振り絞ったように顔を上げた。
「・・静香、」
もう
14の時に突然別れることになった彼女の姿とすぐに繋がって。
「・・・祐ちゃん、」
萌香の母は小さな声でつぶやいた。
萌香は『セレナーデ』の悲しい調べに母が唯一幸せだった時間に思いを馳せます。
そして、母と津村は三十数年ぶりに再会し・・
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