初代 足利尊氏 享年54歳
御存知室町幕府を創立した英傑だが晩年は南北朝のドロ沼抗争や弟・息子との骨肉の争いなどグダんグダん状態に陥る。死因について「公卿補任」「太平記」には「癰瘡」、「愚管記」には「腫物」とあり感染症の類による病死と考えられる。
二代 足利義詮 享年38歳
父尊氏、子義満の間に挟まれてやや陰は薄いが大内・山内といった有力大名を北朝側に引き込んで後の南北朝統一への道筋を作った。
「後愚昧記」によると「大樹(将軍)所勞今曉鼻血多出了」つまり大量の鼻血を出したという風聞が立った3日後に死去。動脈や血圧に問題があったのかもしれないが病名は不明。
三代 足利義満 享年51歳
金閣の人。南北朝統一や敵対大名の討伐などにより室町幕府体制を確立。また武家の頂点に座しつつ太政大臣の官位を身に纏うことで空前の権力を手に入れた。
歴代室町将軍の中で最も有能との評価もあり決して小坊主にとんちでやり込められるマヌケなおっさんなどでは無い。
「教言卿記」によれば応永15年(1408年)4月27日頃から咳をし始め翌月1日に重篤になる。その後一旦快方に向かうが六日死去。「鹿苑院殿追善記」には「流布御所勞」記されているので流行り病に罹ったものと思われる。
四代 足利義持 享年43歳
父義満の下地作りのお陰もあったにせよ30年近くに渡り長期安定政権を維持したのは立派。お尻の出来物を掻きむしったところそこからバイ菌が侵入して病死したらしく、それ故ネタにされやすい。
信心深い人だったようで死ぬ前に後継者を指名してくれと詰め寄る重臣達相手に「神前でのクジ引きで決めちゃってよ」という厄介な遺言を残す。闘病期間10日。
五代 足利義量 享年19歳 2015/01/02(金)14:26:42 ID:E25
義持の子で義持存命中に将軍職を譲られるも父に先立って19歳で病死。
闘病期間20日で病状病名は不明。元々虚弱体質だったらしい。
六代 足利義教 享年48歳 2015/01/02(金)14:27:58 ID:E25
兄義持遺言によるクジ引きで将軍に選ばれた人。加えてドラフト指名当時は僧侶だった為36歳で還俗元服(武士の身に戻った後成人式)をしたという将軍としては異色の経歴の持ち主。
将軍権力強化を志向して強権政治を敷くがこれが多くの人々の反発を招き赤松教康の手の者に襲われて死亡。「看聞日記」はその死を「自業自得」の「犬死」と冷淡に記す。
一方幕府立て直しに一定の成果を残したと評価する声もあり、またキャラも立っているので案外人気がある将軍。
七代 足利義勝 享年10歳 2015/01/02(金)14:30:13 ID:E25
義教が還俗後にもうけた子。父の急死により9歳で将軍になるがそんな子供が幕政を主導出来るわけもなく実権は有力守護達の手にあった。ゆえに政治的実績はほぼゼロ。
「看聞日記」によれば嘉吉3年(1443年)7月13日に「赤痢病」を発して21日死去。在任期間も八ヶ月と短命。
八代 足利義政 享年55歳
銀閣の人。急死した兄義勝の跡を継ぐ。芸術にのめり込んで政治を怠り、応仁の乱の原因を作ったとしてdisられがちだが20歳を過ぎたあたりから病気がちになっていたようで同情の余地も多少は。
「蔭涼軒日録」に「中風」の「再発」によって死亡とある。
九代 足利義尚 享年25
義政の子。近江守護大名六角氏討伐の陣中で病死。といっても戦争そのっちのけで酒・女・蹴鞠・犬追物など遊興三昧に耽った挙句の陣没なのであまり褒められた最期ではない。
延徳1(1489年)年3月16日に重篤となり22日に多少持ち直したものの26日に死亡。直接の死因は不明だが「蔭涼軒日録」によると黄疸が出るまで酒を飲みまくった人らしいのでアルコール性肝硬変とかその類かもしれない。
十代 足利義材(義稙) 享年58
義政の弟義視の子。幕政の主導権を巡って対立した管領細川政元に京を追い出され将軍の座を失う。その後なんとか帰還を果たし義稙の名で二度目の将軍職に就任するも今度は政元の養子細川高国に追い出される。
逃亡生活はのべ10数年に及び毎度おなじみ流浪の将軍として後世に名を残した。最期は逃亡先の阿波で死亡するが直接の死因は不明。
十一代 足利義澄 享年32歳
義政の兄政知の子。義材を追放した細川政元に擁立されて将軍になるが義材の反撃を受け逆に京を追われてしまう。
以後京奪還を目指すも作戦はことごとく失敗し願い叶わぬまま逃亡先の近江で死亡。直接の死因は不明。
十二代 足利義晴 享年40歳
義澄の子。義稙を追放した細川高国に擁立されて将軍に。一方高国と細川家当主の座を争う細川晴元は義晴の弟の義維を担ぎ出してこれに対抗するというよくわからん展開へ。
最終的に細川家の内紛に勝利したのは晴元の方だったが義晴はその晴元と安定した関係を築けず対立しては京から追い出され和解しては京に戻るというパターンを繰り返す事になる。
結局この人も逃亡先の近江で死亡。「言継卿記」と「公卿補任」は「水腫張満」を死因とする。
「水腫張満」はかつては奇病として恐れられた日本住血吸虫症の古名。死亡時は水腫でおなかポッコリの状態であったのだろう。
十三代 足利義輝 享年30歳
義晴の子。父と共に逃亡生活を送り将軍就任も都では無く近江坂本の地だった。細川家に替わって台頭してきた三好家と対立。
地方大名との提携を積極的に進め将軍権威の回復を目指したが最後は三好家家臣らの手にかかり殺される。
「言継卿記」によれば一万名の敵兵に囲まれた義輝方は死闘三時間の末にほぼ玉砕。生母慶寿院、弟周�、31名の近臣らも運命を共にした。
義輝最後の戦いぶりについてフロイスの「日本史」は「長刀(なぎなた)」で数人を死傷させたのち刀を抜いて敵に立ち向かうも斬殺された記す。
十四代 足利義栄 享年29歳
かつて細川晴元が将軍候補として擁立した義維の子。義輝を殺した三好家家臣らに擁立されて将軍職に就くが実権の無い操り人形であった。
しかも三好家内紛のとばっちりで京に入ることすら叶わず就任八ヶ月後に阿波で病死と歴代屈指のかわいそう将軍。「公卿補任」は「腫物」による死亡と記す。
十五代 足利義昭 享年61歳
義輝の弟。信長包囲網の人として有名なんで前半生の略歴は省略。
豊臣秀吉の天下確立後に将軍の座を捨て小大名として平穏に過ごしたお陰なのか歴代室町将軍の中で最も長命となった。ある意味一番の勝ち組将軍なのかもしれない。
「日用集」には「腫物」によって慶長2年(1597年)8月28日大坂で死亡したと記されている。
ちなみに秀吉の死去はほぼ一年後の慶長3年8月18日の事であり関ケ原の合戦はさらにそこから約二年後の出来事になる。















