****
立会川の源流のひとつは、碑文谷八幡宮のまっすぐな参道の端から続くように、直線的な川跡が緑道になっている
それは源流としては、見るからに不自然で、間違いなく改修されたあとの、人工的な姿であろう

前回に掲載した写真
川幅は狭い。近くを流れていた呑川の、半分もない感じだが、道路から浮き上がったような造りになっており、妙に存在感がある
この川の昔の姿を見ると……

昭和初期には、すでに用水路のような直線的な姿で、それは地図を見ても明らかだ

そして、板塀や建物が写っているので、早い時期から宅地化がすすんでいたことがわかる
ということは、大好物の古民家があるはず……と、探してみた

早速見つけた。凝った木造建築の建物。何かの工房のような雰囲気だった
しかし、後が続かない。思っていたより古い家が少ないのだ
どの町でもよく見かける昭和(戦後)の建て売り住宅よりも、平成以降な雰囲気の家が目立つところを見ると、住民の代替わりがすすみ、古い建物は取り壊されてしまったのだろうか?
ようやく見つけたのは


これは渋い。アーチ状になった入り口から見て、個人宅やアパートではなく、個人経営の小さな会社か? どことなく南欧の雰囲気である
窓が木枠で、意匠も凝っている。これは昭和初期といったところだろうか
現在は使用されていないようで、曇った窓のなかに、段ボール箱のようなものが積み上げられているのが、うっすらと見える
ちょっと嬉しかったのが

古い住所表示が、そのまま残っていたことだ
「區黒目」右から左に読ませること、区が區と正字体なことから、やはり昭和初期の建物だと類推できる
現在は、目黒区原町のあとに、何丁目というのが入るので、この住所では手紙が届かない
と、古民家も見つけたし、立会川をさかのぼるのであるが……
これが、前回書いたように、ちっとも楽しくない

現在、立会川の痕跡は「跡形もない」と、言っても過言ではない
普通、川を埋めてしまったあとにも、護岸の遺構や地形の高低差、下水道のマンホールなど、なんらかの痕跡が残っているもので、それは先日紹介したこの近所を流れていた、羅漢寺川を見ても明らかである
しかるに、この立会川には、そういった痕跡というものがまるでなく、見事にただの「歩道」になってしまっており、水の匂いがしないのだ

ようやく見つけた、川跡のような謎の遺構
けっこう目を皿のようにして見て回ったが、見つけたのは、たったこれだけだった

この先、立会川はサレジオ教会の横(この写真の場所の北、教会の反対側の端)を抜ける
そのすぐ近くには

碑文谷村・名主の角田家の長屋門が残っており
「名主は村のなかでも、街道や水路に近い地の利がよい場所に屋敷を構えている」という、かねてよりの僕の主張を裏付けている
立会川は、そのまままっすぐ西にすすみ、目黒通りに向かう
昭和初期の地図では、碑文谷池まではつながらず、立会川は、目黒通りの直前で終わっている
この件に関しては、かなり不自然な印象を受けたので、後日調査したところ、今までの定説を完全に否定する結論に達したが、それは後ほど


目黒通りの寸前にある田向公園。昭和初期の地図では、立会川の上流端は、このあたりにある
公園のなかには、なにやら顕彰碑のようなものがあった
字の彫りが浅く非常に判読しにくいが、読んでみると興味深い内容だった

碑文によると、どうやらこの碑は、碑文谷地区の区画整理を記念して建てられたようだ。なぜ碑を造ったかというと、この区画整理が、大変な難事業だったからだ
区画整理の中心人物は、先ほど紹介した長屋門のあるじ、江戸期には名主をつとめた角田家の子孫、光五郎他、村の有力者7名である
なぜ難事業だったかというと、この事業が計画されたのが、昭和12年という時期が影響している。勘のいい読者諸賢は、もうお気づきだろう
そう、時代が太平洋戦争の泥沼に、まさに足を踏み入れようかという時期だったのだ
おかげで事業は難航し、区画整理が終わったのは終戦の年、昭和20年であった
かねてより、この碑文谷地区は、古い歴史を持つ村なのに、やけに区画が整っているとは思っていたが、どうやらそれは、この区画整理のおかげらしい
そして、文面には「水路を整備した」とも書かれていた

田向公園の端から、目黒通り方面を見ると、このようないかにも暗渠という隙間がある

この短い距離(2、30メートルほど)の暗渠は、消防署とレクサスのディーラーあいだで、目黒通りにぶつかって終わる

そして目黒通りを越えると、このような歩道になり、プジョーやフェラーリのサービス工場の近くを抜けて、まっすぐ碑文谷池まで続く
の、だ、が、、、
ここでひとつの疑問点が浮かび上がる
昭和初期の地図では、つながっていなかった立会川が、なぜ暗渠になって、碑文谷池まで続いているのだろうか?
戦争中に、碑文谷池の湧水の量が増えて、川として溢れ出した? そんなバカな
ここで、先ほどの顕彰碑の文面である
「水路を整備した」という箇所だ
と、ここまで書いて、記事があまりにも長くなったので、立会川の源流に関する私的な考察は、本編の主旨とは微妙にズレるし、後程「解答編」として、別にアップします
あまり一般的なひとには興味がないと思うので、夜にこっそりアップ予定
――論考とその結論編に続く
†PIAS†
****
立会川の源流のひとつは、碑文谷八幡宮のまっすぐな参道の端から続くように、直線的な川跡が緑道になっている
それは源流としては、見るからに不自然で、間違いなく改修されたあとの、人工的な姿であろう

前回に掲載した写真
川幅は狭い。近くを流れていた呑川の、半分もない感じだが、道路から浮き上がったような造りになっており、妙に存在感がある
この川の昔の姿を見ると……

昭和初期には、すでに用水路のような直線的な姿で、それは地図を見ても明らかだ

そして、板塀や建物が写っているので、早い時期から宅地化がすすんでいたことがわかる
ということは、大好物の古民家があるはず……と、探してみた

早速見つけた。凝った木造建築の建物。何かの工房のような雰囲気だった
しかし、後が続かない。思っていたより古い家が少ないのだ
どの町でもよく見かける昭和(戦後)の建て売り住宅よりも、平成以降な雰囲気の家が目立つところを見ると、住民の代替わりがすすみ、古い建物は取り壊されてしまったのだろうか?
ようやく見つけたのは


これは渋い。アーチ状になった入り口から見て、個人宅やアパートではなく、個人経営の小さな会社か? どことなく南欧の雰囲気である
窓が木枠で、意匠も凝っている。これは昭和初期といったところだろうか
現在は使用されていないようで、曇った窓のなかに、段ボール箱のようなものが積み上げられているのが、うっすらと見える
ちょっと嬉しかったのが

古い住所表示が、そのまま残っていたことだ
「區黒目」右から左に読ませること、区が區と正字体なことから、やはり昭和初期の建物だと類推できる
現在は、目黒区原町のあとに、何丁目というのが入るので、この住所では手紙が届かない
と、古民家も見つけたし、立会川をさかのぼるのであるが……
これが、前回書いたように、ちっとも楽しくない

現在、立会川の痕跡は「跡形もない」と、言っても過言ではない
普通、川を埋めてしまったあとにも、護岸の遺構や地形の高低差、下水道のマンホールなど、なんらかの痕跡が残っているもので、それは先日紹介したこの近所を流れていた、羅漢寺川を見ても明らかである
しかるに、この立会川には、そういった痕跡というものがまるでなく、見事にただの「歩道」になってしまっており、水の匂いがしないのだ

ようやく見つけた、川跡のような謎の遺構
けっこう目を皿のようにして見て回ったが、見つけたのは、たったこれだけだった

この先、立会川はサレジオ教会の横(この写真の場所の北、教会の反対側の端)を抜ける
そのすぐ近くには

碑文谷村・名主の角田家の長屋門が残っており
「名主は村のなかでも、街道や水路に近い地の利がよい場所に屋敷を構えている」という、かねてよりの僕の主張を裏付けている
立会川は、そのまままっすぐ西にすすみ、目黒通りに向かう
昭和初期の地図では、碑文谷池まではつながらず、立会川は、目黒通りの直前で終わっている
この件に関しては、かなり不自然な印象を受けたので、後日調査したところ、今までの定説を完全に否定する結論に達したが、それは後ほど


目黒通りの寸前にある田向公園。昭和初期の地図では、立会川の上流端は、このあたりにある
公園のなかには、なにやら顕彰碑のようなものがあった
字の彫りが浅く非常に判読しにくいが、読んでみると興味深い内容だった

碑文によると、どうやらこの碑は、碑文谷地区の区画整理を記念して建てられたようだ。なぜ碑を造ったかというと、この区画整理が、大変な難事業だったからだ
区画整理の中心人物は、先ほど紹介した長屋門のあるじ、江戸期には名主をつとめた角田家の子孫、光五郎他、村の有力者7名である
なぜ難事業だったかというと、この事業が計画されたのが、昭和12年という時期が影響している。勘のいい読者諸賢は、もうお気づきだろう
そう、時代が太平洋戦争の泥沼に、まさに足を踏み入れようかという時期だったのだ
おかげで事業は難航し、区画整理が終わったのは終戦の年、昭和20年であった
かねてより、この碑文谷地区は、古い歴史を持つ村なのに、やけに区画が整っているとは思っていたが、どうやらそれは、この区画整理のおかげらしい
そして、文面には「水路を整備した」とも書かれていた

田向公園の端から、目黒通り方面を見ると、このようないかにも暗渠という隙間がある

この短い距離(2、30メートルほど)の暗渠は、消防署とレクサスのディーラーあいだで、目黒通りにぶつかって終わる

そして目黒通りを越えると、このような歩道になり、プジョーやフェラーリのサービス工場の近くを抜けて、まっすぐ碑文谷池まで続く
の、だ、が、、、
ここでひとつの疑問点が浮かび上がる
昭和初期の地図では、つながっていなかった立会川が、なぜ暗渠になって、碑文谷池まで続いているのだろうか?
戦争中に、碑文谷池の湧水の量が増えて、川として溢れ出した? そんなバカな
ここで、先ほどの顕彰碑の文面である
「水路を整備した」という箇所だ
と、ここまで書いて、記事があまりにも長くなったので、立会川の源流に関する私的な考察は、本編の主旨とは微妙にズレるし、後程「解答編」として、別にアップします
あまり一般的なひとには興味がないと思うので、夜にこっそりアップ予定
――論考とその結論編に続く
†PIAS†
****