戦後80年を思う 学徒動員された少女達 | ピアノ教室そね 「ひとりごと」

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今年、日本の戦争体験者は1割になったそうだ。

 

今日は

前回『大正生まれの俺たちの詩』の紹介より

大正生まれの私の父に続き、

学徒動員された私の母の体験を述べたいと思う。

 

母の同級生の詩人「浅野章子」さんが

詩集『春の終日』を残している。

当時17歳だった自身の思いを

その日の出来事を時間を追って書き綴った詩集です。

17歳から20数年経ち

(戦争の悲劇を風化させたくない)との思いが強くなり、

当時の同級生を取材し、本人の名前を題材に取って

それぞれの体験を克明に記録した詩集です。

 

校章をつけた学生の彼女たちは、

学徒動員令により、神風の鉢巻を締め、

浜松市のはずれ河合楽器揚子工場まで行き、

飛行機の外部分の脚扉、爆弾倉などを組み立てる工場に配属され、

浜松の空襲で級友が死に怪我をした。

 

その中の

ひとつ、   

私の母『広野三津子の場合』と題した項を紹介する。

 

『広野三津子の場合』

 

北の棟の入り口付近で爆弾倉に電気ドリルで穴を打ち抜いている時だった

 

一瞬足をさらわれたのか 資材置場のそばで気を失った

気がついた時工員の人が肩をかしてくれて揚子町のお宮へ行った

頭がボーツとしていて 誰が居たかなどはわからないという

ただおろおろしていた婦人たちの姿がぼーとみえた

うううううという うめきごえが聞こえる

手の出せない重症者が余りに多かったのだ

左足首のくるぶしを破片が貫通していた

 

浜商の生徒の知らせで父が飛んで来た

リヤカーで遠州病院へ

同級生の矢田、倉橋さんの0型の輸血をA型のわたしが受けた

複雑骨折だった

 

福木をあてられたままの三ヶ月、

薬は「ヨードチンキ」だけだったが肉がふいてきた

ふき上げる若さの力

医師が切ると言った足を父が切らせなかった決断を

今も感謝しているが今でも切らなかった足は冷たい

足首だけが変形したのではなかった

身体の左から右へといろいろ係わってくるこの頃だ

 

あの少女の日

松葉杖は手作りの竹製だった

でも何処でも行ったのよ

生きるよろこびをとんとんと踏むようにね

 

以上

2年前に亡くなった母は、

爆弾を落としたアメリカを憎むのではなく、

犠牲になった自分の心の痛みを

同じ日本人なのにわかってくれないことの方が

悲しいと言っていた。。。

 

このことは戦後の私たちは考えるべきことだと思う。

古来から持つ人の心を思いやる日本人は

どこに言ってしまったのでしょうか。。

戦後の教育、経済、政治の歩んで来た歴史に

私は大きな課題が、今あるように思う。

 

人の心の痛みがわからなくなったこと

 

そんなの自分には関係ないと思うこと

 

全て社会を平和にし、良い人間関係を築くには

重要なことと捉えて、まだまだ私たちは

理論ではなく心が成長していく必要があると思いませんか?

日本語を学んで来た日本人の美しい文化である

「思いやりの心」

「察する心」

を取り戻したいと思います。

 

 

後に、母の弟から聞いたことだが、

当時母は自暴自棄になっていたそうだが

父と結婚してから明るくなったと。

父は同年代で、戦争経験していたから

心から母の心を理解しようとしていたし

なにしろ私から見ても

よく歌を歌い明るい父だったのです。

母もよく歌を歌っていましたからね!!!