震災と復興 | 53歳 おっさん社長の日記

53歳 おっさん社長の日記

このブログはもう8年ぐらい前から書いております。タイトルも入れ替えて、月に数回書いていきたいと思います。コメントは放置でしたが今後は書くようにしたいと思います。

昨日は、東日本大震災から2年目の節目の日でした

ちまたでは、多くのイベントが行われ、テレビも、新聞も多くの報道が行われました。

あの日は、東京ビックサイトでLEDの展示会に参加しておりました。当社で販売していたLEDの照明器具の説明に出ていたのです。

大きな2回の揺れで、展示会場のブースの展示物もかなり揺れていました。ビックサイトの天井から細かな塵がふってきて、対岸の施設(海上保安庁)から黒い煙がもくもくと上がっていた記憶があります。

すぐに動くと思った電車が全く動くことなく、ビックサイトの水上バス、バスの待合には長蛇の列が出来ていました。電話は全く繋がりませんでした。ちなみに、1回目の揺れを感じた瞬間、カミさんに電話をしたら、繋がったので『大丈夫?』と聞きました。カミさんは、『大丈夫じゃない』と言っていましたが、結構大丈夫そうな声だったので、一安心して電話を切りましたが、それから二度と電話は繋がりませんでした。

仕方がないので歩くことに決めて、ビックサイトから、有明のテニスコートの横から、豊洲に抜けて、月島、築地、銀座へととぼとぼと歩きました。途中、豊洲の公園で公衆トイレに入ったのと、銀座でドトールで温かいコーヒーをいただいた以外は、ずーっと歩いていました。月島で入ったコンビニでは、凄い量の買い物をする方を見かけて驚いたものです。

東北の津波は、豊洲に着く前に、誰かが見ていたワンセグの携帯の映像で知りました。自分の携帯をつけてみましたが、10分もすると電池切れになってしまいました。心配でしたが、とにかく会社に着くのが優先で黙々と歩きました。

銀座から、有楽町、東京駅まで来ると、今まで見たことがないくらいの凄い数の方がタクシーやバスを待っていました。

東京駅から、大手町、竹橋までは、凄い数の方が歩いていました。神保町、専修大学前を経て、飯田橋の事務所に戻った頃には、4時間が過ぎていました。

事務所には当時の社員と僕の家族が全員にて、僕が帰ってきたことに驚いていました。事務所に着いたのは、8時を回っていました。

帰って料理をする気にもならず、飯田橋のタイ料理屋で家族と当時のパートナーで軽く食事をして、自宅に戻りました。確か、翌日は会社を休みにして、社員は自宅待機にしたと思います。そして、僕とパートナーだけが会社に出てきた記憶があります。北区に住んでいた社員が自宅に戻ったのは、翌日の1時だったと聞きました。車は大渋滞で動きませんでした。

放射能の噂が聞こえてきたのは、震災から2、3日に経ってからです。とりあえず、家族全員を三重の実家に連れて行きました。その足で伊勢神宮に詣でて、東北の無事を祈りました。私は、2日ほどで東京に帰ってきました。家族はさらに2週間ほどで東京に戻ってきました。長女はストレス症状があった様に記憶しています。

5月には、工務店の取引先や友人の紹介もあって、釜石から、大槌町、山田町に日帰りで行きました。ほんの少しの金額を釜石市と山田町においてきました。5月と言っても肌寒い日でした。

2度目に東北に入ったのは、1年後の昨年の3月9~10日でした。3月18日に当社主催の震災復興セミナーを行ったのですが、まだ被災地を見たことがないとおっしゃるその講師の先生をつれて、釜石、陸前高田、気仙沼、南三陸、女川と見て回りました。1年も経っているのに全く何も変わっていないことに驚きを隠せませんでした。街の中にガレキはなくなっていましたが、自動車のスクラップやコンクリートの基礎がまだ沢山街には残っていました。

その講師の先生は、その後その体験を題材に本を出版されました。とても良い本にできあがったので、本当にやって良かったと思いました。収益金はほんの少しですがインタビューさせていただいた女川町長宛に送らせていただきました。

その2ヶ月後のゴールデンウイークには、北茨城に1泊して、飯舘村、南相馬市、相馬市と北にのぼっていって、仙台、石巻、女川といき、南三陸でさらに1泊して、南三陸、陸前高田まで行ったあと、北上から東北自動車道で帰ってきました。

ことしになって、さらに仙台のお客様から注文をいただいたので、周りを見てきました。やれたことはほんの少しですが、少しはお役に立てたのかな?とも思います。

昨日今日とテレビを見て、コメンテーターが現地を回って、復興が遅いといっているのを見ました。彼らは確かに僕なんかよりも何度も現地に入って、現地の方の意見を聞いているかもしれません。今では知人も多くなってその方々に同情もするのかもしれませんが、何だかおかしいなと思いました。

震災からの復興は、スピード勝負です。とにかく、多めでも良いからどんどん予算をつける、そして、人をどんどん送り込んで競争させてでも復興しないと、スピード感のある復興は無理です。神戸の時と違って、東北の被災地はものすごい広範囲です。そして、人の数も全然足りていません。物資も足りません。例えば、生コンがないと建物は建ちませんが、その生コン工場が近隣では1箇所というところがほとんどです。そんなところは、生コンの取り合いになって、大型施設の修復は先、民間住宅はあととなります。政府が生コン工場を建てるというニュースが流れたのは、なんと2年後のことしになってからです。

さらに、復興には高台移転や区画整理、かさ上げなどが計画されないと予算が付きません。確かに地盤沈下はしたので、かさ上げはいるかもしれませんが、かさ上げした土地に建物を建てるというのはとんでもない工程がプラスされるのです。そんなもの土建屋だったら誰でも解ります。

通常更地に建てるよりも3~5倍も時間も工程もかかるのです。だって、地面が一番重要ですから。盛り土したふかふかの土地の上に建物なんて建てられるわけがありません。何度も何度も転圧といって上からたたく、重いローラで押すということをしますが、それでも何百年の地層と比べたらふかふかです。

残念ですが、これらのアイデアは、プロの建設業者が建てたわけではなく、学者や行政マン、政治家がたてたプランだと思います。

そんなプランが発表されても、マスコミはほとんど批判をしませんでした。それも、のんびりのんびり協議して、第2次補正予算が組まれたのは1年後という茶番でした。それでも、マスコミは全く批判しませんでした。僕のイメージでは、ちょっと遅いんじゃないのぐらいの批判はしたと思いますが、烈火のごとく起こっていたのは、ごく一部の野党の政治家と、良心的な評論家や学者だけだったと思います。

なんでもそうですが、初動が肝心です。国会も適当にやって、のんびり協議していたのであれば、その部下の官僚も公務員もどうしてものんびりになります。現地では今すぐ欲しい予算も数ヶ月後、酷いと1年後になってしまいました。

そんなので、スピーディーな復興など望めるわけではありません。予算力が有る宮城県、仙台市周辺は早かったです。彼らは、事前に動いてあとから予算がつくのを待つことが出来ました。万が一予算が付かないならつかないでも、構わないと言えました。ですが、女川町、南三陸町、大槌町などの町にはそれ程大胆に動くことは出来ませんでした。

でも、まだ遅くありません。政府には一刻も早い復興を切に望むしかありません。

他人の悪口はあまり好きではありませんが、東北選出(特に福島県、岩手県)には、民主党の議員がどれほどいたことか、彼らが被災地に入ったというニュースは残念ですがほとんど聞けませんでした。選んだのは我々ですが、マスコミに踊らされてなんと愚かなことをしたのか、自民党だったらもうちょっとマシだったのにと思うしかないのでしょうかね。

ちなみに、麻生さんは震災後数日の南相馬市の会議でニコ動に映っていました。安倍さんは、世耕さんと一緒にトラックで2度3度と物資を運んでいました。若い小泉さんは、宮城や青森などを視察しました。青森のトラック協会が政府に協力を申し出ても何も指示がこなかったのが、自民党に相談したらすぐに仕事の指示だきたそうです。でも、本来は彼らが側面の指示ではなく、政府内部にいればもう少し何とかなったはずです。あれは我々国民が自分で行った墓穴を掘る作業だったのかもしれませんね。。。