現状の教育システムで

得られる知識など

実は他で代替できる。

しかし学校で得られる経験

その時代でしか得られぬ

唯一無二なものである。

 

タイサクはそれを悉く阻害し

大いに問題があった。

一方で教育システムそのものに

疑問を呈する声はさほど挙がらず

そちらの止揚も起きなかった。

 

前回書いた

「野球ののべつまくなしの応援」

 

コロナソードーを機に

見直されるかと思ったが

そうはならんかった。

格好のコンフリクトがあったのに

見直されず「止揚がない」

進歩がない。

 

教育も一緒ですね。

私20年3月に「一斉休校」

したときにこう書きました。

 

『学校一斉休校についての批判、

何か違和感あるんだよなぁ。

 子供には未来があるからこそ、

現状も糧に成長できると思うんだけどなぁ。

学習は学校の押しつけより

自習の方が大切なことも多い。

最近教育系youtubeを紹介したが、

その環境は昔より遙かに整っている。

これを奇貨とし、

常識的なお仕着せの教育ではなく、

新たな才能を伸ばす

絶好のチャンスとも言える。

この通りの言葉は教育否定の

矛盾をはらんでいるから

発することはできないだろうけど、

自習や読書、趣味への没頭等、

今後の人生にプラスに出来ると、

メッセージ出来る要人が

いなかったのが大問題だと思うよ。』

 

これも「止揚がない」

教育システムそのものに

疑問を呈すことで

アウフヘーベンが

あったかも知れないのにね。

あったのは

「教育機会を奪うのはケシカラン」

というステレオタイプの

感情的な批判ばかり。

 

ここで思い出してみましょうよ。

学校へ行く楽しさって何でしたか?

私は教師の影響で

登校拒否になったこともあったが

基本行くのが楽しかったよ。

口幅ったいが私は勉強が出来た。

その代り体育はどうしようもなかった。

 

出来る勉強も出来ない運動も

授業が楽しくって学校に行っていた

わけじゃなかったな。

むしろ苦痛で

勉強は「みんなができるまで」

足踏みさせられた。

一方で運動はそうはならず

ほうたらかし。たとえば

なわとび左差しに関しては

学校は機能していなかった。

 

それでも

友だちとあえること、

話が出来ること、

遊べること、

多くの人から

刺激を受けられること

モチベはそれでしたね。

教師さえまともなら

学校って面白いはず。

 

他の人も同じだったんじゃないですか。

私は運動能力が劣っていたので

色々軋轢もあったけれど

それでも楽しかったよ。

 

授業よりも行事

運動会は苦手だったが

遠足とか、社会科見学とか

課外授業、みんなで写生とか

これは学校でしか得られない

貴重な経験だったよ。

 

極論すればいわゆる「授業」は

今はネットで授業以上の効率で

習得できてしまう時代。

しかし、同年代の子どものふれあいとか

ある程度の

(行きすぎではないのが絶対条件だが)

「大人の干渉」との距離の置き方

こういうのはネットでは学べない。

 

しかし、それらを全て排除したのが

『タイサク』だったんだよ。

これからの学校の役割で

最も求められることを

全否定する極めて愚かな思想。

 

学校でしか学べない事って絶対にある。

しかしそれはいわゆる授業による

知識ではない。

大事なのはそれ以外のこと。

 

自分の場合、運動神経に

絶望的なハンデを負っていたので

人一倍校庭を走り続けたな。

校庭は何周と目標を立てやすかったし

非常に走りやすかった。

更にある程度「人の目」が

あるのも大事。

私の場合勉強ばかりしていて

運動しないからと真逆の誤解を受けて

更なるイジメに繋がったから

アピールも兼ねていて

その効果もありましたよ。

 

あとは遊びですね。

校庭の遊具、

鉄棒、雲梯、ジャングルジム。

これらを利用した

「新しい鬼ごっこ」を考案して

男女みんなでわいわい楽しんだっけ。

運動が苦手で校庭に一人

ぽつんと佇んでいるような子でも

参加できるようなルールを考えて

結構広まったんですよ。

 

こういうのって学校でしか出来ない。

しかしこれらを全否定した

全く想像力に欠ける

インテリっぽい人が

一方的に押しつけてきたのが

タイサクでしたね。

 

彼らはカンセンボウシが第一義

それ以外の価値は認めぬ一方で

弊害極めて軽視しているから

『とりあえずやっとこか』と

科学的根拠など微塵もないものを

チェリーのシホーダイで

平気で押しつけてきたんだよ。

 

止揚がない。

奇貨としない。

だから延々と同じ間違いが

繰り返されるだけ。

 

小池さんやルーN浦さんが

お好きな横文字を使えば

今回の「レガシー」は『マスク

 

マスクで弊害のある人なんか存在しない

マスク着用を拒む人間は

単なるワガママで

コーシューエーセーの敵

徹底的に排除するのが

社会正義である

 

アウフヘーベンが興って

付加価値が生み出されたわけじゃない。

ヘンテコな信仰が定着しただけ

これって哀しすぎませんか?