澄んだ水 | この世の外ならどこへでもーモラハラ・DVからの自己回復日記

この世の外ならどこへでもーモラハラ・DVからの自己回復日記

2012年より「望郷解毒酒場」という謎のタイトルで書いてきたこのブログ。
離婚後は解毒する「毒」も無くなったのでタイトルを変えました(2021・4より)
*ブログ内のすべての文章・エピソードのコピー・転載は禁止しています。

ここ最近、書き込みのインターバルがあくのは

アウトプットする事項が格段に減ったから。

 

波立つ感情、どうにもならない不条理感

吐き出すべきそれらが激減した。

 

 

被害ツマは、謎の無理ゲーをインストールされたようなものです。

独自ルールのクソみたいなゲームに

無理やり参加させられている。

 

これはおかしい、普通じゃないと気づいたら

アンインストールするしかない。

 

強制終了。

 

ハードディスクのどこかしらに不具合がでても

全部死ぬよりまし。

それは確実。

 

 

それで、いまは新たなインプット作業に入っている。

生きるために必要な、良い感情や肯定感、

良い人間関係。

 

ウィルスソフトも強化する必要がある。

 

 

 

共存中の間も、

なんとか自分を生かすためのものを

インプットしようと努力はしてた。

 

うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座うお座

 

しかし、濁った水の中に澄んだ水をいくら入れても

特に、絶えず汚い水が流れ込む場所では

いくら澄んだものを入れても

水はきれいにはならない。

 

澄んだ水に住む魚は、

僅かに入ってくる澄んだもののおかげで

ぎりぎり息ができるかもしれないけど

 

息が止まるような状態にはいつでもなる可能性がある。

だから緊張して水面に顔を出して

パクパクと呼吸し続けなきゃならない。

 

水槽の水を全部ぶちまけて総取り換えするしかないのだ。

底の汚泥は一掃して。

 

それか別の水流に出て行くしか。

 

だって、そこに在る汚い水は変わらないんだもの。

 

汚泥に身を潜めて住む魚と

澄んだ場所にいるべき魚は

そもそも相いれないのだから。

 

 

一旦、きれいな水に入ってみると

そこが自分に相応しいのだと

理屈じゃなく腹の底で実感する。

息がしやすい。

身体が楽。

 

もとの場所に戻ろうなんて決して思えなくなる。

 

 

いまのことも先のことも

影響されない環境で

安心できる場所でなければ

本当の自分の思いは出てこない

考えられないと思う。

 

少なくとも私はそうだった。

これが自分の考えだと思っていたのは

その環境だからこれしか選べない、という類のもので

自分で制限をかけた中で考えたものだった。

 

 

何がしたいのかとか

今後自分がどんな人生を望んでるかってことは

別居後、初めて自分の心に上ってきたことがいろいろある。

 

それほど環境の影響、洗脳の効果は強力なもので

離れなければ融けない。

 

 

薬物中毒もアルコール中毒も

すべての依存症から回復するためには

依存対象から物理的に離れることが基本だと思う。

 

モラハラ、DV加害者は(そして被害者も)

人間関係の依存症。

支配と従属の関係に依存してる。

離れなければいつまでも依存されるし、その関係に巻き込まれる。

 

薬物もアルコールも自分が手を伸ばさなければ

勝手に口に入ってきたりはしない。

 

でも人間は、こちらが拒んでも近くに居れば

絡んでくるのだ。

その分タチが悪い。

依存で自身を保つしかないから、向こうも必死だ。

コントロールするためにあらゆる手を使って

その関係に留めようとするだろう。

 

沼に引き込まれないためには

こちらが距離を取らなければならない。

 

できるだけ遠くに。

 

物理的な「遠く」のほかに

心理的な「遠く」

 

第三者の目をできるだけ増やす。

世間の常識を盾にする。

(だから、録音や写真、客観的な証拠は必要)

 

近づけない環境を作る

近づけない環境に行く

 

泥に住む魚は

澄んだ場所には生きられない。

 

 

 

さて、あなたはどうですか?

澄んだ水に生きる魚だったんじゃないだろうか。