【再掲】素人による精神分析読解の問題(『フロイト全集 月報』) | Philosophy Sells...But Who's Buying?

【再掲】素人による精神分析読解の問題(『フロイト全集 月報』)

最近、精神分析に対する自分の考えを表明してほいた方がいいかなと思うことがありました。
岩波版『フロイト全集』第19巻(2010年6月配本)によせた文章をここに再掲します。
少し前の文章ですが、自分の考えは変わっていません。




素人による精神分析読解の問題

 

國分功一郎

 

 フロイトは医者だった。一八八一年にウィーン大学医学部で学位を取得しており、一八八六年にはウィーンでクリニックを開業している。フロイトの名は精神分析から切り離せないが、これはフロイトが医者として患者に接するなかで自ら創始し、様々な変更を受けいれながら発展させていったものである。つまり、それは、彼がヒステリーや神経症に苦しむ患者を治療するために作り出した理論である。

 すると次のような疑問が出てくるのは至極当然のことであるように思われる。たとえば筆者のような、医者でもなく、心の病の治療に携わるわけでもない人間が、フロイトの精神分析についての書物を読むとはいったいどういうことなのか。しかも、今回の全集発刊はこの問いを再び読者に突きつけてくるものである。これまで幅広く利用されてきた人文書院版著作集が独文学者を中心とするチームで翻訳されていたのに対し、現在出版中の本全集では、主として精神医学の専門家が翻訳に携わっているからだ。

 

 おもしろいから読んでいる――非常に高い確率でそのような答えが戻ってくることが予想される。もちろん、そこには「娯楽として」とか、「知的に」「学問的に」とかいった形容がつくかもしれないが、それは大して重要なことではないだろう。「へぇ、こんな症状の人が本当にいるんだぁ」という感想も、「この理論は自分が専攻している領域でも使える」という感想も、苦しむ人間を救うために作り出された理論をおもしろがっていることに変わりはない。


 ここ三、四〇年の間、精神分析は様々な他の学問分野に応用されてきた。精神分析をおもしろがることがおかしいのかどうかについての判断をここで下すことはできない。ただ、精神分析をめぐるそのような事情を脇で見ながら、一九八〇年に、モーリス・ブランショが、自著にて――但し丸括弧を付して――書き記した次の言葉は傾聴に値する。

 

「(私の思うに、精神分析の語彙とは、ただ精神分析に従事している者〔ceux qui exercent la psychanalyse〕だけが、すなわち、その人にとって精神分析が危険であり、極限的な危機感であり、日々の検討対象である、そのような者だけが、使うことのできるものだ。――そうでなければ、精神分析は、一個の確立された知識体系にそなわった便利な言葉でしかない)」(Maurice Blanchot, L’écriture du désastre, Gallimard, 1980, p.110)。

 

 その著作を読む限り、ブランショの精神分析に対する理解や知識は決して深いものではない。ブランショは完全に精神分析の素人である。だが、彼が素人であるが故に、この率直な言葉は、我々の問い、すなわち、医者でもなく、心の病の治療に携わるわけでもない人間が精神分析についての著作を読むとはどういうことかという問いにとって無視できないものである。ブランショは、端的に、「精神分析に従事している者」でなければ、精神分析の語彙など用いるべきではないと考えた。要するに、精神分析を素人がおもしろがることはおかしいと考えた。ブランショは、いわば、精神分析に関わることの倫理について考えている。我々は上で、「苦しむ人間を救うために作り出された理論」という言い方をしたが、ブランショはこのような言い方を認めてくれるのではないかと期待しても強ち的はずれではないだろう。

 だが、問題は、「精神分析に従事している者」という一言をどう解するべきかということである。というのも、どうもブランショは、精神分析を職業として実施している者、いわゆる分析家のことを念頭に置いているように思われるからである(exercerという動詞は、単に従事するというだけでなく、職業として何かを営むことをも意味する)。精神分析の語彙が理論的な意匠あるいは衣装として好き勝手に使い回されていることに対するブランショの苛立ちは理解できる。倫理の問題をかくのごとく提起するブランショは完全に正しい。だが、だからといって、精神分析理論の担い手をそのように限定してしまってよいものだろうか。いや、むしろ我々はブランショの意図を無視すべきかもしれない。「精神分析に従事している者」によってブランショがいわゆる分析家を意味していなかったにせよ、この表現をどう解するべきか。それを考えるべきではないだろうか。

 実はフロイト本人が、既に、精神分析における専門家と素人の問題を論じている。「素人による精神分析の問題」と呼ばれるテキストがそれだ(本全集では、原語表現〔Die Frage der Laienanalyse〕により忠実な「素人分析の問題」という邦題が与えられることになっている)。これは、フロイトの弟子であるテオドール・ライクが、医師免許を持たずに精神分析の治療を行った「もぐり診療」の廉で、ウィーンの裁判所に告訴されたという事件をきっかけに執筆されたものである(最終的に告訴は却下された)。「素人とは、医師でない人のことであり、問題とは、医師でない人にも精神分析を行うことが許されるべきかどうかということである」という同テキストの問いは、「医者でもなく、心の病の治療に携わるわけでもない人間が精神分析の書物を読むとはいったいどういうことか」という問いに似ている。さしずめ、我々の問いを、「素人による精神分析読解の問題」と名付けることができるだろう。そして、この問い、この倫理的問いを考えるためのヒントを、フロイトのこのテキストに求めることができるだろう。

 議論は、フロイト自身が或るウィーンの高官をイメージしてつくりあげたという架空の「或る中立の立場にある人」との問答という形で進められる。フロイトはまず、精神分析とはいかなるものかをこの人に説明しようとする。説明は、素人への説明としてはかなり詳細である(とはいえ、非常に要領よくまとめてあるので、分かり易い精神分析概論としても読むことができる)。それ故、いつまでたってもフロイトが問題の核心、すなわち、医師でない人にも精神分析の診療を認めるべきかどうかという問いに触れないことに、対話者がいらいらする場面が何度かある。

 その対話者は次のように問う。精神分析とは何かを説明するのに、あなた、フロイトは大変な骨折りをした。だが、それが素人による精神分析の問題にどう関係するのか。私が思い至ったのは実にありふれたケースである。神経症は特別な病気であり、精神分析はそれを治療するための特別な方法、ひとつの専門的医療分野である。外科医になろうとすれば、免許状で証明される医学教育だけでは十分でないことは言うまでもない。免許取得後、外科専門の大きな病院で研修を受けるだろう。精神分析家の場合も事情は同じではないか。大学での勉強を終了した後、精神分析の研修を受けなければならないということだろう。どこに素人による精神分析の入り込む余地があるのか…。

 フロイトは一歩下がったところから、これに答えようとする。彼がまず試みるのは「もぐり医」の再定義である。「もぐり医」とは、法的に見れば、国が交付する免許状を所持しないで診療を行う者のことである。だが、私はむしろ「もぐり医」を、「治療に必要不可欠な知識や能力を持たずに治療を行う者」と定義した方がよいと考えている…。

 フロイトによれば、当時、精神分析を学びも理解もせずに分析治療を行う医師が多数存在したという。つまり、この定義によれば、そうした医師こそが、精神分析における「もぐり医」だということになる。

 フロイトは、分析家には医師免許は必要ないと考えた。確かに医師になるための教育には、分析家によって有益なものが多数含まれている。だが、そのすべてが分析家になるために役立つわけではないし、むしろ、分析家になるためには必要ではないものがあまりにも多い。

当時はベルリンとウィーンに分析家の育成にあたる教習所【インスティチュート】があった。フロイトはこう言う。そこで養成された者たちは、医師免許はもっていないけれども、精神分析の面倒な技法をきちんと習得すれば、立派に分析を行うことができるのであって、そうした分析家は、精神分析の領域では素人ではない。「目下のところ私が強く申し上げたいのは、何人も一定の養成教育と訓練とを受けることによって資格を得ない限りは精神分析を行うべきではないということです。その場合、当の人物が医師であるかないかということは、私には副次的なことであると思われます」。

フロイトは更に、精神分析のための専門大学が設立されたとしたらという仮定の下に、精神分析教育に必要な学科目についても説明している。そこでは医学部でも教えられている深層心理学や生物学の基礎、性についての知識、病理学などが学ばれねばならない。だが、それと同時に、医師とは全く無縁な知識も学ばれる必要がある。文化史、神話学、宗教心理学、文学などがそれだ。

対話相手は結局フロイトの考えには納得しない。彼は、現に存在している、医師免許を持たない分析家のことをとやかく言うつもりはないと前置きした上で、「何のために素人分析家が存在すべきなのかという積極的理由はさっぱりわからない」と言う。フロイト自身、「あとがき」で、自分はこの対話相手のモデルになった人物を納得させるには至らなかったので、この擬似対話も、意見が一致するという結末にはしなかったと述べている。ここにはフロイトの誠実さが読みとれる訳だが、その点は措いておこう。とにかく、フロイトの答えに納得するかどうかはともかく、この答えは明解である。分析家になるための必須条件として医学部の修了を求めるのは、志ある者に過大で不必要な努力を求めることになる。むしろ、分析家には医学部では学ばれることのない知識が必要だ…。

確かに、これは明解な答えなのだが、しかし、この文章に、「素人による精神分析読解の問題」を考えるためのヒントを求めている我々にとっては、何か、あまりおもしろくない答えでもある。「精神分析に従事している者」は、医師でなくともよいが、精神分析のための専門的教育を受けた者でなければならないという非常にありふれた答えが得られたに過ぎないからである。「素人による精神分析」についてのフロイトの見解は、我々の問いに直接役立つところはない。

だが、ここで本を閉じてはならない。「素人による精神分析の問題」についての説明は終わった。だが、その後、文章の最後の最後で、フロイトは、分析家の位置づけではなく、精神分析そのものの位置づけについて語るのである。

精神分析の教育には、文化史や宗教心理学などが必要である。だが、逆に、精神分析はそれらの学問に貢献することができる。これら様々な分野の学者たちは、精神分析という新しい研究手段を使っていることに同意さえすれば、極めて大きな達成を得られる。そして、フロイトは続いてこう述べる。「精神分析学を神経症の治療に用いるというのはその利用法のひとつに過ぎないのであって、ひょっとしたら将来は、この利用法は最も重要なそれではないということになるかもしれません」。

 我々は、最初に、精神分析は患者の治療のために作られた理論だと述べた。確かにこの理論はそのような目的をもって作られた。だが、フロイトによれば、精神分析学を神経症の治療以外の場で用いるのは、応用ではない。外挿〔extrapolation〕ではないと言ってもいい。このことはフロイトによって明示的に意識されていた。精神分析に従事するとは、したがって、必ずしも、医師や分析家であることを意味しない。そのような利用法は、最も重要なそれですらないことになるかもしれない。

 

ブランショに戻ろう。彼は、精神分析に関わることの倫理について考えた。だが、この倫理について考えるためには、フロイトの上の一言から出発しなければならない。「精神分析に従事する者」が、医師や分析家だけを指してはならない。もちろん、ブランショはそういうことを意識した上で、医師とも分析家とも言わなかったのかもしれない。いずれにせよ、我々はブランショの意図など度外視して、彼の一言を、この倫理について考えるための足がかりにはすることができる。つまり、いかなる形で精神分析に従事するにせよ、精神分析はその人にとって、「危険であり、極限的な危機感であり、日々の検討対象である」し、そうでなければならない。

 この「危険」とは何だろうか。たとえば、フロイトは、我々が紹介したこの文章の中で、対話者に精神分析を説明するにあたり、精神分析理論がもたらす、自己の中の他者という考えを強調していた。「自分の自己はひとつだといつも思っていたのに、何だか、もう、ひとつではないような気がする、まるで自分の自己に逆らいかねない何か別のものがもうひとつ自分の中にあるような感じがする〔…〕」。いかなる形で精神分析に従事するにせよ、精神分析に従事する者は、このような認識を避けて通ることができない。

 
 たとえば、これは、日常生活でよく耳にする「自分のことは自分が一番よく分かっている」という一言の基礎を完全に覆すものである。精神分析を読解する者、精神分析に従事する者は、このような一言が全く意味をなさないという認識のもとに自らの生を生きねばならなくなる。たとえば、その時、我々は他人に対して責任というものを、どう問うことができるだろうか。そしてまた、「自分の自己に逆らいかねない何か別のもの」が何か事を為したと感じる時、我々は「自分」の責任をどう考えることができるだろうか。精神分析は「危険」である。それは我々に根本的な態度変更を迫る。今挙げた例はそのひとつに過ぎない。おそらく、精神分析をおもしろがるとは、このような態度変更が迫られているという事態に気がつかないこと、あるいは、それを無視することである。