現象学について、竹田青嗣氏などの分かりやすい解説書をがある。また、次のサイトでも簡潔な説明がなされている。
http://www.asahi-net.or.jp/~rt8s-ymtk/tetugaku/genshougakutoha.html
http://www.asahi-net.or.jp/~rt8s-ymtk/tetugaku/genshougakutoha.html
これらの説明により、いままで今ひとつ分からなかった点が明確になった点で、筆者の方々には感謝している。しかし、現象学そのものに関してやはり納得できない。
現象学は、意識の外の客観的世界を否定するのではなく、この「意識の外に客観的世界が実在している」という思い込みを一時的に保留(エポケー)にした上で、この確信がなぜ成り立っているのかを問い質すという。私なりにさらに要約すると、次のようになる。
● 現象学の考え方
【例えば目の前にあるリンゴの意識への現れ方は、想像上のリンゴとは異なり、私の意識や意志の力では変えることができない。このように個物の知覚的な直観(個的直観)は、絶対的な動かし難さがある。
またリンゴは、色、形、感触、味などを言語で表現することができ、個物の知覚には必ず様々な概念が含まれている。言語によって表される概念や知は、その個物の意味としての側面は、本質と呼ばれる。これらを認識することが本質直観である。
またリンゴは、色、形、感触、味などを言語で表現することができ、個物の知覚には必ず様々な概念が含まれている。言語によって表される概念や知は、その個物の意味としての側面は、本質と呼ばれる。これらを認識することが本質直観である。
直観によって与えられたものは、与えられたとおりのままに受け取らざるを得ない。目の前のリンゴが幻想であるのか実在するのかはともかくとして、「リンゴが知覚されている」ということだけは確かである。そしてこれが「リンゴがある」という確信成立の源泉である。】
【また、客観的世界の実在性を確信させ、目の前の世界に現実感を与えているのは、個的直観と本質直観だけではない。他者の振舞い、言動もまた、客観的世界の実在性を確信させ、世界に現実感を与えている。
「自分の身体・行動と他者の身体・行動との類似」および「自分の心と身体の関係」から、私は、他者の身体には私と同じような心(他我)が存在することを確信している。このように他者の心が実在しているという私の確信を「間主観性」という。このとき私は、私の身体と彼の身体が同一の世界に属していることを直観している。そして、もし私と彼が同一の世界にいるなら、私にとって「ここ」にあるリンゴも、彼にとっては「そこ」にあるのだと考えることができる。そして、彼がそれをリンゴとして扱うことで、私はリンゴの実在性をはっきりと確信することになる。】
● 現象学への疑問
以上のような説明に対して異をとなえる必要はないであろう。我々の認識は主観を超えることはできないことは当然であり、客観的世界を確信する根拠は、主観に属する感覚や知覚に由来することは確かであるからだ。
問題は、「意識の外に客観的世界が実在している」という思い込みを一時的に保留(エポケー)するのは良いとして、後で解除してはいけないのか、ということである。エポケーした上で、このような確信の条件が明らかになったとしても、「意識の外に客観的世界が実在」しないことにはならない。
「意識の外に客観的世界が実在」していても、認識が主観的なものである以上、同じようなプロセスを経る必要があるからだ。
●「客観的世界の実在」を否定する根拠はあるか
意識の外に見える世界の、個的直観や本質直観が、絶対的な動かし難さを持っていることであることが、「客観的世界の実在」の確信の条件となっていることは、むしろ「意識の外に客観的世界が実在している」ことのひとつの証拠としてとらえることができる。そして、反証のない限り、「客観的世界の実在」の確信を撤回する必要はないのではないだろうか。
これに対して、幻覚や幻聴という現象が一部の人々に見られることをもって、主観的直観が人々の間で必ずしも一致しないことが挙げられたりする。しかし、一部の例外があることで全体を否定することはできない。
殆どの人々の間で、外の世界は一致しているのであるし、そのような知識の集大成としての科学の普遍性はだれも否定することができないのである。
現象学は、「間主観性」において他者の存在を肯定し、また、独我論との批判には、「意識の外に客観的世界が実在」することを否定するものではないと、都合に合わせて、言を左右にしているように思える。
ハイデッガーの哲学は現象学を発展させたものと言われるが、彼の現存在分析はそれなりに説得力を持っている。そのような分析において、仮に「客観的世界の実在」をエポケーして「本質直観」しているのだとしても、その議論は「意識の外に客観的世界が実在」することと矛盾があらわにならない限りにおいて説得力を持ちえるのではないだろうか。
「意識の外に客観的世界が実在」するものとしての議論こそ、「地に足のついた」議論となるのであり、「意識の外に客観的世界が実在している」という思い込みをエポケーしっ放しの議論は「地に足のつかない」議論でしかないように私には思える。