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哲学系ダイアリー

哲学関連の勉強日記です。

少しでも疑いが残るものは全て誤りだとし、捨てるべきであって、それでも、そこには、まったく疑いえない何かが残るのかどうか、とデカルトは考えたのでした。
感覚は、わたしたちを欺(あざむ)くことがあるから、これは信用できない。
幾何学も、推論を間違うことがある。
そして、わたしたちが起きているときに考えることは、眠っているときでさえ同じようなことを考えられる。だから、これまでに自分のなかに入ってきたものは、すべて、夢と同じように、本物ではないかもしれない、と考えたのです。

このように考えていくと、最終的には、どうなると思いますか?

デカルトは、次の判断にたどり着きます。

このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ惟(おも)ウ、故ニワレ在(あ)リ〕」……この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した(46頁)。

体がないとか、世界がないとか、いま自分のいる場所がないとかは想像できますが、だからといって、自分は存在しないということは想像できません。

実は自分は存在していないのでは、と考えるなら、「実は自分は存在していないのでは」と考えてるのは誰ですか?

むしろ逆に、自分が何かを疑って考えているということが、自分が存在していることの証になるのです。

こうしたことから、デカルトは、次のことを知ります。

わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と(47頁)。

「実体」とは、存在するために他のなにものも必要としないもの、です。
この概念は少しわかりにくいですが、なににも依存せず、それだけで存在できるもののことです。

そうすると、いま自分を存在するものにしている魂(精神)は、体とは区別されるのですから(それだけで存在できるのですから)、体が無かったとしても、いまあるままのものであることに変わりはない、というのです。





デカルトは、「精神が達しうるすべての事物の認識に至るための真の方法を探究」しようとするのですが、それには、論理学でも数学(解析・代数)でもだめだといいます。
そして彼は、次の四つの規則にたどり着くのです。

第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった(28頁)。

注意深く考えて、速断・偏見を避けること。疑う余地がまったくない程はっきりと判るもの以外は、判断しないということです。
これは、「明証性の規則」と呼ばれます。

第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること(28頁)。

これは、「分析の規則」と呼ばれます。

第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと(28頁)。

単純でわかりやすいものから始めて、少しずつ、複雑なものへと昇っていくのです。前後の順序がつかないようなものの間にさえ、順序をつけていきます。
これは、「総合の規則」と呼ばれます。

そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること(28頁)。

「枚挙」というのは、一つ一つ数え上げることです。
これは、「枚挙の規則」と呼ばれます。

人間が認識できることは、どれも繋がっているのだから、「真」でないものは受け入れず、あることから他のことを引き出すのに順序を守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる、というのです。





デカルトは、次のように確信します。

わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、と。後になって、ほかのもっとよい見解を改めて取り入れ、前と同じものでも理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるためである(23頁)。

それまでの自分の基礎の上にあるもの、昔から信じていたものに、それが真実であるかどうかをよく考えることもなく拠りかかるのではない。
そうではなく、一度リセットして、自己の諸見解について、理性を用いて考え直すべきだ、というのです。
これによって、よく自分の生を導けるだろう、と彼は信じるのです。

このように、デカルトは、自己改革を目的としたのですが、世の中には、自己判断のみに頼るものや、逆に、自分では探求せずに教えられたことを信じる者ばかりだ、と嘆いています。