今泉鐸次郎 いまいずみ-たくじろう 
1873-1935 明治-昭和時代前期の経営者,郷土史家。
明治6年1月13日生まれ。「東北日報」「北越新報」の主筆をつとめ,のち長岡製氷専務,善光寺鋼索鉄道監査役。昭和4年維新史料編纂委員となり,「長岡市史」や「越佐叢書」を編集。昭和10年1月5日死去。63歳。新潟県出身。旧姓は神戸。号は木舌(ぼくぜつ)。著作に「北越名流遺芳」『河井継之助傳』など。
新潟県の戊辰を語る上で、長岡城下の攻防は欠かせないが、残された記録は数少なく、今泉鐸次郎の『河井継之助傳』に頼る所が大きい。古記録と聞き語りを組み合わせた今泉鐸次郎の著作は貴重書として挙げられる。河井継之助に関する全ての書籍などの記述は、この『河井継之助傳』が基になっている。
『河井継之助傳』は二次的史料であり、裏付けのない記述は取り扱いには注意を要する。
特に関係者の証言は、昭和初期という時間が経過した回想であること、記憶違い、記憶の入れ違いによって史実とは異なる記述も存在する。関係者の主観だけでなく、インタビューした今泉の主観も含まれている。

『河井継之助傳』の小千谷談判に関する「河井継之助に随行した松蔵の回想談による記述」

小千谷陣屋へ到着した河井継之助一行は、官軍と会津・桑名藩の戦闘などの混乱で取り合ってもらえず、陣屋を後にして宿へ向かったという。

『河井継之助傳』は、「信濃川の脇の旅籠屋(野沢七郎右衛門)へ参りました。」とする。
『小千谷市史』は『河井継之助傳』を引用しながらも「信濃川の脇の旅籠屋野七(野沢七郎右衛門)へ移った。」とする。
渡辺三省氏は、『越後歴史考』で、この野七に関する記述を間違いとして、郷宿野沢滝右衛門に宿したとする。

当時、信濃川脇の旅籠屋・郷宿に関する記述が『小千谷市史』にある。川岸町と呼ばれる場所が、小千谷陣屋が所在した信濃川脇の地域である。
『小千谷市史』明治四年の戸籍記録業者

一般的に大名の使いである武士が泊まるなら旅籠屋ではなく郷宿(ごうやど)である。ただし、『小千谷市史』に記述された宿は小千谷に所在した宿の全てではない。
『河井継之助傳』に記述された「信濃川の脇」の語りが何処を意味するのかで変わる。
野沢七郎右衛門は、町通り(本町)に屋敷を構え縮問屋を営んだ家である。『河井継之助傳』の「(七郎右衛門)」は証言ではなく、今泉の注釈で、著者主観による勘違いによる記述かもしれない。『小千谷市史』では野七(野沢七郎右衛門)とするが、野沢一族の屋号野七は「野沢七兵衛」家で、野沢七郎右衛門家とは異なる。七郎右衛門から安易に略称で野七としたのか?不明である。野沢七兵衛家は、町通り(本町)で魚屋と旅籠屋を営んでいた。また、郷土史家俵山喜秋氏の野七家への聞き語り調査により官軍を宿泊させたことが分かっている(諸家文書および『小千谷文化』)。
野沢滝右衛門は、陣屋前に郷宿を構え、陣屋取り次ぎをした名家である。江戸時代の建物が現存し、歴史建造物として小千谷市が委託調査している。『小千谷市史』および小千谷市は滝右衛門に関する調査をした記録はなく、ごく一部の郷土史家によって記述されるのみである。



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