『マリー・アントワネット』 ソフィア・コッポラ監督 「ひとりぼっちの私」という一人称 | 旧館:物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

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東北新社
マリー・アントワネット (通常版)

評価:★★★星3つ

(僕的主観:★★★星3つ)


恋をした、


朝まで遊んだ、


全世界に見つめられながら


この日本版のコピーが秀逸だった。







■万人に注目されたい露出趣味願望


コピーは、ソフィアコッポラ監督の演出の本質の意図を十分すぎるほど掬っていると感じるなー。女性に凄く人気であったというが、鑑賞後、だろうな、と思った。


これは、露出趣味というか、自分が世界の主人公になりたい少女の願望を、まるでこれでもかっていうほど露骨に演出していて、この映画が異常なほど好きな人は、万人に注目されたい願望が極まったキワモノの露出趣味の人が多いと思う。この映画の主人公自体はそういう下品ではないのだが、これにハマるとすれば、少し不思議ちゃん願望があるのだろうなー。まっキレイにいえばお姫様願望。ちょっと、ストレートすぎて恥ずかしかった(笑)。僕はこういう系統の女性は、非常に苦手なので、ちょっと苦笑してしまった。


なぜかって少し分析すると、この映画はすべてが、マリー・アントワネットという14歳で親も好きな猫ともいきなり切り離された少女の孤独が基本にあって、異邦の世界にいる「ひとりぼっちの私」という一人称で、世界のすべてが切り取られてるのです。


最後の最後まで、この「ひとりぼっちの私」という一人称から主人公が変化することはありません。


いいかえれば、成長がないってことです。


この視点(=人格のドラマツゥルギー)を分解すると、


・異邦の地に一人ぼっちで投げいれられた孤独


・孤独を埋めるべき家族との記憶(マターナルな安心感)の不在※1


・その孤独を埋めるために自分の周りのものすべてを代償行為とする




まずこうなっています。


ナルシシズムの地獄ですね。普通は、こういった独善的な視点は、長く続きません。それは単純で、そんな「あらゆる周りの人から注目され続ける」というような特権的で特別な地位に、人は若くして立つことは不可能だし、なによりもそのような立場には実力以外で立つことは難しいからです。




そう、しかし時にこの子供のような心性で、世界のすべてを手に入れてしまう場合があります。特別な生まれや立場で、若くて、美人(美少女)であった場合です。若くして大成功した(実力とは限らず)俳優や女優やモデルなんかも似た立場ですね。といわけ、こういう実力によらない世界からの注目というポジションは、


美少女


というロールモデルの属性のようです。だって、美少女って、ようは「美しい」だけでしょう?。なんの実力でもないし、それが長く続くわけでもない。根拠のない存在なんですよ。この場合の美しいというものには、他者からの視線というものが隠れています。そしてそれだけに、強烈で儚げな妖気のような存在なんです。こういう少女の狂気というのは、男性側からでも女性側からでもどちらで物語として利用しやすい記号なので、よく出てきますよね。


男性側では、ナボコフの『ロリータ』でしょうし、『ヴァージンスーイサイド』の原作であるジェフリー・ユージェニデスの『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』なんかもそうですよね(あれは微妙の視点が入り組んでいるけれども)。女性側からだと、サガンの『悲しみよこんにちわ』なんかも思い出させられる。フランス映画に出てくるロリータのモチーフは、こういったイメージが再現されている感じがしますね。男性と女性どっち側の視線で、映画を取るかによって作品のイメージは変わりますが、女性の方がいいものを撮ることが多い気がする。

ウラジーミル ナボコフ, Vladimir Nabokov, 若島 正
ロリータ (新潮文庫)
ジェフリー・ユージェニデス, 佐々田 雅子, Jeffrey Eugenides
ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹 (Hayakawa Novels)
フランソワーズ サガン, 朝吹 登水子, Francoise Sagan
悲しみよこんにちは

話がそれましたが、さてマリー・アントワネットには、自分の孤独を埋めるために周りのすべてを自分の代償行為としてとらえる独善的な視点を、奪われるような契機が全然存在しないのです。いやーそうでしょう!。美少女で、フランス王妃ですよ。しかもこの時代のブルボン王朝のヴェルサイユ宮殿という閉じられた貴族文化の爛熟期の繭の中です。


だから、この独善的でナルシシズムだけ世界の夢から、処刑されるまで覚めることがなかった、というのがこの映画の演出であり、世界観であり、そして感情移入のポイントになります。他者に出会うことが皆無であったということです。


ようはね、死ぬまで夢見てました!って演出なんですよ。




最後の最後まで、「世界の主人公である自分」という全能感から脱出しないままに、悲劇の王妃として終わりました、という脚本。


そう、これは、夢をずっと見続けて、自分が世界の主人公であることに埋もれていたい人にとっては、最高に感情移入できる最高の物語なんです(笑)。これが、凄い好きだという女性は、少し自分の人生を省みましょう。こういったわがままが通じるのは、そうだなーーー親が大金持ちか結婚相手が大金持ちで、自分のわがままがすべて通じる時だけなので、そんな都合のいい人生は、なかなかありません(苦笑)。勘違いは人生を崩壊させるから。・・・・って、かといって、このわがままが死ぬまで通る人も、中にはいないわけではないので、そういう人にとっては大きなお世話だけれどもね。



※1:母親の偉大で英明な君主であるオーストリア・ハプスブルグ帝国の皇帝マリア・テレジアからは、「~べき」という要求ばかりで、愛される記憶がありません。近くに育っていれば、マリアテレジアも家族の愛を与えられたでしょうが、、、。マリア・テレジアの息子(マリー・アントワネットの兄)は、見事で英明な君主になっているので、教育は良かったんだと思いますよ。家族が仲がいいので有名でしたからね、ここわ。


僕は、ソファア監督のその他の映画を見ていないのだが、このような少女心理をえぐるからには、相当病んだ作品が多いのではないかな、と思いました。なかなかここまで見据えるのはできないものですよ。フワフワとしたわかりにくい心理描写を、ちゃんと丁寧に追っていくので、男の僕でもちゃんとアントワネットの気持ちにシンクロできた。まぁ僕は女性の視点シンクロするのに抵抗がない人なので、万人ができるかはわからないが、、、とにかく物凄く女性に向けてつくられた映画であることは間違いない。

東北新社
ヴァージン・スーサイズ
東北新社
ロスト・イン・トランスレーション

■マクロへのかかわりが全くないのは、史実なのか演出なのか?


個人的には、マリーアントワネットをどう描くかが凄く興味深かった。物語の層の厚みを増すためには、歴史のアーカイブを利用するといいのだが、歴史そのものを描くときには、その監督が、その歴史の物語「どの部分」を強調してメッセージを作り出しているか?という部分が、注目される。過去の大作品系統のように、すべてを包括して歴史を再現しようというような骨太の映画は現代のような時代では少ないんですよね。


けれどもねー演出は、たしかに上記で非常に一貫性があるものであったんだけれども、これだと、あまりにマリー・アントワネットが馬鹿すぎて、、、本当にそうなのだろうか?って気がする。僕はこのへんの歴史を分析したものを読んでいないので、わからないが、あの絶対君主マリア・テレジアの娘が、こんなにマクロの政治について無理解なものであろうか?って不思議な気がする。そういう意味では、映画としてはできがいいのだが、僕としては、好きではなかったし、歴史の視点・・・・僕の中のマリーアントワネット像を壊すほどのパワーはなかったので、センスオブワンダーは感じなかった。これならむしろ、『ヴェルサイユのばら』のほうが(アニメの)、よほどセンスオブワンダーだった。


池田 理代子
ベルサイユのばら (1) (集英社文庫)
池田 理代子
ベルサイユのばら(5冊セット)
パウル・クリストフ, 藤川 芳朗
マリー・アントワネットとマリア・テレジア秘密の往復書簡
山之内 克子
ハプスブルクの文化革命 (講談社選書メチエ)

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