「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。『しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。』『わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。【あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。】』それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」
詩篇2篇1-12節
私たちの周りには色んな人がいます。一緒にいて楽しい人もいれば、悩んでしまう、疲れてしまうような人だっている。まあ人それぞれ色んな性格、性質、育ってきた環境などありますから、一概にダメだこいつは、という事なんてできない(それを平気で言ってしまう人もいるのもまた悩ましい所ですが)。ただ私たちは忘れてはいけない。私たちを生んでくださった、いのちを与えてくださった神様がいるという事を。この方がまことの王、全てを治めてくださると言ことを。私たちはこの方に身も心も委ねていい。この方があなたにもたらすために、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてでもあなたを愛し抜かれた。こんな方がその御心を、愛を現して下さるなら、それだけ素晴らしいか。私たちはこの方をお迎えしよう。あれこれ文句を言ったりつぶやいたりする前に、このイエス様を求めようではありませんか。命をかけて愛されたイエス様があなたに与える新しい命、私たちは大いに期待しよう。
という事で↑で歌われている詩篇、これ古代イスラエル王国2代目の王ダビデの詩を中心に、かつてイスラエルをエジプトから救い出す器として神様から選ばれたモーセ、ダビデの息子ソロモン、また滅びたかに思えた一族コラ、バビロン捕囚中、捕囚後にイスラエルを支えたエズラなどの詩を、おそらくバビロン捕囚後、もう一度神様の祝福に与りたい、本当の意味で回復したいと願いまとめたもの。その中の一つになります。この2篇は、どうも王が即位する時に歌われていた詩と言われています。そして同時にメシア詩篇と呼ばれ、当時の彼らから見たら(古代イスラエル2代目王ダビデ王の時代~バビロン捕囚期~バビロン捕囚からの解放期の)やがて来る救い主、まことの王なるイエス様の誕生を待ち望む詩、私たちから見てもやがて王の王として再び来られるイエス様を待ち望む詩となります。
この詩の一番最初に「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」、とうたわれていますが、まさに古代イスラエル王国の周辺には様々な国が乱立し、イスラエルを苦しめていました。いわゆるバビロンやアッシリヤだけではない、歴史をたどればエジプトやペリシテ、モアブやアモン、エドム(この3か国はイスラエルの兄弟国であったが、イスラエルが祝福されていることに対し恨みを持ち、常に攻撃を仕掛けていた)などがイスラエルをある意味で囲んでいた、そんな背景の中でこの歌が歌われていたわけですね。まことの王を待ち望み。
この詩、双方の立場から見ると今の時代でもその通りの状況だな、と思います。一つは、私たちを苦しめる様々な勢力が溢れているという事。神様を神様とも思わず好き放題する国々、また権力者たち、王とこの詩で歌われていますが、そうした上に立つ者たちもそうでしょう。そして一つの塊になって襲い掛かってくる。そういう考えじゃないあなたはおかしい、こうするのが当然なんだ、とまるでそれが正義、絶対に正しい、と言わんばかりに押し付けてくる。これ政治の話だけではなく、仕事や家庭関係の中でも結構ありますよね、人間関係でも。「主と、主に油注がれた者とに逆らう」、神様の御心を求めず、「自分のお心」をさも神様の御心とうそぶくなり思い込んで。自分の思う通りにしなければ神様を神様と認めずつぶやいて。
困ったことに、そうした人たち、その中に私たちも陥りやすいのです。なぜこんなことになるんだ、神様はなぜ自分の思う通りにしてくれないんだとつぶやいて、神様のみことばを、神様のみことばを「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう」と言って、それが自分のかせになるからこんなものは解き放ってしまおう、と言い始める。自分の好きなように生きたい、歌うんだ、と。これ、多くの人が陥る話です。自分がしたいことと神様が言っていることは違うんだよな、そんなもので自分の歩みを縛られたくない、時代が違うんだ、こんなものはかせにしかならない、と神様が成そうとすることを信じられずに、嘆きの歌であったり、文句の歌であったりを歌ってしまう。
ここで昨日見ました詩篇1篇をもう一度思い出して下さい。その1篇に「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」、とありましたね。悪者のはかりごと、罪の道、神様をあざけるものをあなたの王座につかせず、神様を王座に招き入れる人に、まことの王の王なる神様は私たちに幸いをもたらして下さるんだ、と。私たちが世の教えや価値観に振り回されそれを我がものとするのではなく、神様の教えを喜びと詩、いつも口ずさむように歌う、そのような人を神様はどんなにつらい夜も、明るい昼も、神様の栄えで、栄に満ちた喜びで、いのちで満たして下さるんだ、豊かな実を結ばせ、枯れることはない、そう約束されるわけです。
神様のことばは枯れさせるのではなく生かして下さる。とこしえにそのいのちの泉があなたを満たし、飢える事も渇くこともない、神様がご自身の全てで私たちを満たして下さる。それは決してかせになどならないのです。神様はこの天地万物を創られた、いやその前からずっとおられる方、昔も今も、これからもい続けて下さる方。時代や状況によって態度を変えるような方ではない、決して変わらずあなたを愛し、決しておとろえることも枯れることもない神様だからあなたを本物のいのちで満たすことができるのです。
昔も今も、神様を自分と合わない、気にくわないから、自分の思う通りにしてくれないから、と敵対し、主と、主に油注がれた者とに逆らう人たちが多くいます。それはやがては終わりの時に、イエス様に敵対して総攻撃を仕掛けてくる日が来る、でもその前に今、私たちはその敵対者側に加わっていませんか?世のこっちの教えの方が自分にしっくりくる、と時とともに変わる価値観や、時代の潮流に合わせて、神様の流れを、愛をせき止めていませんか?私たちは神様を自分の内から解き放つ、かせとして考えていませんか?むしろ私たちをそうした世の偽物から解き放とうと、その道を示されるのです。当時のイスラエルも、神様に敵対し、こっちの方が幸せなんだ、と世の幸せと呼ぶものを呼び求め、神様の教えよりも自分の幸福を考え、また自分の名声を求め走った結果、彼らは捕囚という悲しみの道に進む言ことになってしまった。でもそんなの悲しいじゃないですか。神様はあなたを幸いにしたいのです。神様はあなたを愛し、その愛を歌い、また実行してくださるのに、この方を自分のかせだ、なんて言ったら悲しすぎですよ。神様のいのちから離れ、世の、いや世と一緒に裁きの枷をはめられ、彼らの行列に加わるなんて。しかし、神様は私たちを勝利の行列、王の王の行列に加えてくださるんですよ?
パウロは「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」と手紙で書き送ります。神様が私たちをイエス様の勝利の行列に加えてくださる、加えようとしてくださる。私たちが不安で、道に迷っている時、その香りを誰かを通して、いやイエス様ご自身が放ってくださり、救いへと導こうとしてくださっているのです。
私たちはこの本物の王の王、メシア・救い主イエス様を王として求めていますか。この王の王の救いを、本物の愛を待ち望んでいますか?詩人は「天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。『しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。』」と、神様が確かにあざける者どもをあざけり、怒りをもってこれらに打ち勝たれるその様子を詩人は見、また体験するのです。どんなに偽りの王が経ち、権力者が、世を、あなたを混乱させようとも、神様がまことの王をたてられ、すべ治められるんだ、と。すべての国は回復する、この王が新しい天と地をつくられる、そのプロセスに私たちはいる。その中であなたはどっちに着くの?と笑みをもってあなたを招かれるのです。
裁き、というと怖く聞こえるかもしれませんが、逆に私たちにその勝利に招いて下さっている、その愛を示して下さっているんですよ?神様を神様とせずに一人苦しみ悩みさ迷う私たちをあざけり見捨てるのではなく、愛し救うために笑いかけ、むしろ御子イエス様を遣わし、私たちのこの思い煩いも、痛みも、罪も一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせてでもあなたを取り戻し、もう一度あなたを回復させてくださる、神様の子として迎え入れてくださるのです。苦しむ我が子のために、微笑みかけ、イエス様をその代わりにされた。何と深い愛、何という聡明で愛に満ちた王だろう。この王の王を私たちは待ち望んでいるでしょうか。あなたはその叫び声、歌声をこの方に向けてあげていますか?
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」と詩人はこの神様の声を聞きました。これからアドベントを迎えていくこの季節、このイエス様を私たちの救い主として身代わりに死なせるため、そのイエス様のいのちを、王の王なるイエス様のいのちをもって救うために生まれさせてくださりました。そして復活されたイエス様が、ここまで愛し抜かれたイエス様が、世界の隅々まで、地の果てまで治めてくださる。悪は打ち砕かれ、すべては変えられる。サタンも、それに与する勢力もみな打ち砕かれ、完全な勝利の日が来る。あなたはこのイエス様の御働きを求めていますか?王としていますか?求めていますか?
詩人は最後に、「それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」と歌います。私たちももう王のようにふるまう必要もない。まことの王の王なるイエス様がおられること、勝利されることを喜び、委ね、待ち望もう。口づけしよう。滅びではなく救いへと招き、幸いな者とするためにいのちをかけられたイエス様は今日も生きておられ、働かれている。今日この方を喜び歩もうではありませんか。
