「流血の罪に苦しむ者は、墓まで逃げるが、だれも彼をつかまえない。潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る。自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。」
箴言28章17-20節
私たちは何か重いものを持っては遠くにいけない、心の重さであるなら、余計に私たちの行動を鈍らせたり、疲れさせてどうにもならなくなります。何か負い目がある時ならなおのこと、どうなるか分からない不安に疲れ果てる。そんなにたくさん重荷を背負って生きるなんてつらすぎる。私も死にそうになるほど大変なこともありました。その時は他の人が助けてくれたんですが。ただ私たちの重荷を軽くすることはできるんです。荷物は降ろせば軽くなる、でしょう?神様は私たちの重荷を降ろしていいよ、と仰るのです。私たちを創られた天の父なる神様は、私たちがそうして倒れる事なんて望まない。わが子を倒れたままにする親なんていない。神様は私たちを救うために最も身近なところにイエス様を生まれさせてくださり、その重荷を一緒に背負い、最後はこれを取り除くため十字架で死なれた。そこまでしてでもあなたの全ての重荷、罪、一切を取り除いてでも本物のいのちに生きてほしい、とその御手を今日も伸ばされている。あなたはこの方をどれだけ求めているだろうか。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言と言いますか、知恵のことば、いのちのことば、そしてこれを受けソロモンが書き残し、その記録を約250年後、南ユダ王国王・ヒゼキヤが、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、ここに神様の知恵・変らない真実がある、みな知ってほしいと一言一句変えることなく書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は私たちに訳の分からない物、不確定な、不確かなものを恐れ、それに追われる歩みをして苦しむことを良しとされない。あなたをそんな蔑んだ目で見ない。むしろあなたを愛するがゆえに本物の知恵、本物の愛で私たちを覆ってくださる。何を恐れるのでもなく、この神様の愛にへりくだろう、そう訴えるわけですね。
そんな神様はご自身の思い、愛をさらに続けて、ソロモンに、彼を通してヒゼキヤに、そして私たちに「流血の罪に苦しむ者は、墓まで逃げるが、だれも彼をつかまえない。潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る」と語られ、示されます。これは↑の前の言葉、昨日の分かち合いでも見ましたが、「正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ」という言葉ともつながると思います。
昨日も申し上げましたが、私たちを惑わす様々な声があります。本当に正しいかどうか分からない、もしくはどうしても先入観から間違ったものでも正しく聞こえてしまう言ことだってある、それで誰かを裁いてしまう。それって自分の道も迷わすし、それを語る誰かをも迷わせてしまう。自分の迷った道に。自分も正しいか分からない、世の価値観の道だったり、魅力的な人だったり、だからその人の主張を受入れたり。それって結局サタンの陥れたい穴に落ちてしまう。神様から引き離したいサタンの。ないし、せっかく神様が用意してくださっているよい道、知恵から離れ、神様が与えたいと思っていること、それを失ってしまう、それって良いの?神様の幸せを継がず、世の罠だったり思い煩いだったり痛みだったり、そうしたものを受け継ぐなんてもったいなすぎる。
神様はあなたに正直な、と言ったら神様に失礼かもしれませんが、そんな正直な愛を注がれている。私たちを罠にかけたり、変な道に進むことではなく命を得てほしい、本物の幸せを得てほしい、と注がれているわけですね。惑わすのではなくて、本物の喜びを得てほしい、と。でも、その神様から心を捻じ曲げて、いやそれは今の時代に合わないとか、自分には合わない、この状況には適用できないでしょう、と言って疑ってどうしましょう。そのあなたを別なものに差し出して、何をそれらから受け継ぐのですか?神様の御心より自分の思いを優先させたい、それはたぶん人の思いなのでしょうが、それがやがてはあなたに陥らせることになる。
「流血の罪に苦しむ者は、墓まで逃げるが、だれも彼をつかまえない。潔白な生活をする者は救われ、曲がった生活をする者は墓穴に陥る」、と↑で語られている通り、だからこそ私たちは神様の御心や思いを自分の手で捻じ曲げるのではなく、捻じ曲げた選択をして、霊的ないのち、神様の救いの道、御子イエス様のいのちをもってまであなたに備えて下さっている、備えて下さった救いを失ってはいけない。せっかく死から、世の手から、罪の手から救い出して引き上げてくださった、何の罪もないイエス様のいのちをもって救い出されたのに、それを蔑ろにして、元の罪に追いかけられる、世の成功や名誉を追い求めるような歩みに走ってどうしましょう。世の中の風潮がそうだから、とまるでそれが正しいかのように思ってそれに振り回され追いかけられるような歩み、そんな逃亡するような歩み、疲れませんか?そんなものに追いかけられる歩みなんて。むしろ神様の恵みが覆う歩み、追いかけると言いますか、押して下さる、その流れに生きる方が幸いじゃないですか。その幸いは不確定なところや訳の分からない人から来るのではない、あなたの創り主、あなたのためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまない方から吹かれてくるのです。聖霊様が、聖霊様の力が。
私たちは何か変な重荷を背負っていませんか?あれをしなければ幸せになれない、これをしなければ幸せになれない、お金がなければ、いつも恋人がいなければ…とか、世の価値が中心になって、本当に幸せにしてくださる神様を忘れて、その世の重荷で疲れてしまう。でも、神様はその重荷を降ろしていい、イエス様の荷と取り換えてくださって、重いものではない、あなたに平安をもたらして下さるのです。私たちの背負いきれないはずの十字架を取り除いて、イエス様が十字架を背負ってくださって救ってくださった。その救われたいのちは重荷ではなく、私たちの魂に平安をもたらすのです。重荷には決してならない。むしろ取り換えられた命、新しいいのちの内に神様の恵みが覆うのです。それなのに、世の重荷を今さら背負ってどうします?イエス様流の歩み、イエス様が新しくして下さった命、その道を疑ってどうしましょう。もうあなたを世のそうした価値観や、追われる何か、背負わせる重荷に捕らえられてはいけません。主に委ねましょう。
もちろん、世の風潮に従わなければならない場面に迫られる時もあるかもしれない。そんなきれいごとばかり言ってられないよ、と言われるかもしれない。でも、神様を信じること、従うことはきれいごとではなく、幸いなを受けること、祝福、まさに神様の御業を体験する時となるのです。逆転の時となるのです。
以前ダニエル書で分かち合いましたが、このソロモン、そしてヒゼキヤ王より先、南ユダ王国がバビロン帝国に捕囚された際、神様は捕囚先にあってイスラエルの民を守るために、バビロンの中枢に神様を信じるイスラエル人ダニエル、そしてシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを宦官として置きました。彼らはバビロンの価値観で生きる事を迫られることがたくさんあります。ネブカデネザルを筆頭にして、彼らは覇権を握っている。ある意味では力が世的にはある。このやり方に従えばとりあえずなんとかなるのでは、とその流れに身を委ねたくなるような状況だったかもしれない。
特にこの時、ネブカデネザルの建てた像を拝まなければ燃える火の炉に投げ込まれなければならない、というとんでもない主張を出してきた。彼らに従わないと死ぬ。従えば生きる。そんな状況に追い込まれる中で、彼らは拝むことを選ばなかった。どうせ神様は助け出せない、と拝むことを迫るネブカデネザルを前に、ここで拝めば世的幸せ、生を受けられる、でも世が提供するいのちではなく、神様の幸せ、生を求め、「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」と、世にひれ伏すのではなく、神様にひれ伏すのでした。するとどうでしょう、彼らは近づいただけで焼け死ぬほど燃える炉の中に投げ込まれても、体だけではなく服も含め燃えることはなかった。いやそれだけではなく、その危機の中にあって御子イエス様が一緒にその燃える火の炉の中に入ってくださって彼らを守られ救われた。
そしてなんと、これを見たネブカデネザルが「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ」と国中に命じるほどの大逆転が起こったのです。そこはもう世が支配する場所ではなく、神様の住まう場所、住まいとなられ、変えられたのです。まあそれでもネブカデネザルはその後も失敗を繰り返してしまうのですが。
神様を諦めず、潔白に従う、その中に私たちは神様の勝利を見るのです。あなたはこれをどれだけ求めているでしょうか。私たちが罪ゆえに滅びるはずだった、罪の呪いに支配され、墓の穴に沈む悲しみの歩み、ついには裁き・死を迎えなければならないところを、御子イエス様がこれを引き受け、身代わりに罰せられたことによって大逆転が起こった。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るなら、この救いを受け、罪人から神様の子とされるというとんでもない大逆転が起こる。変えられる。そんな神様が勝ち取らせてくださったこの救いを蔑ろにするなんてとんでもない。
「自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない」。私たちは自分が正しいと思うところで一生懸命耕し、自分が求める者を刈り取って飽きるもの、いや栄養さえ取れないものを刈り取るのではなく、神様の畑から食料を得よう。神様を求めよう。その時私たちは多くの祝福を得る、いや神様が与えてくださる。世から富を求める、得ようとすることを第一として肝心のいのちを失うのではなく、私たちはこの神様の供えられた命の中からいつも神様が与えてくださる一つ一つの恵みに感謝し、これに生きようではありませんか。これでは足りない、と自分で付け加えたり、世のものを取り入れたりするのではなく、ここに全てがあるんだ、とまず神様のその国と義を求めよう。そこに現される、世とは比べがたい完全な神様の愛、御心が成り、溢れるから。
もう虚しいものを追い求めて、豊かになったつもりになって神様の恵みを失うという貧しいものになってはいけない。世的には貧しいと言われようとも、主にある豊かなものとされる。心貧しいもの、貧しさゆえに神様を求める者は幸いなんです。その人は天の御国の豊かさを得るから。このイエス様のいのちにあってこれを受け継ぐ。これが世に劣る?私たちはこの本物の豊かさ、イエス様にあって与えられた御国の相続分、恵みを求めどこまでも生きよう。そこに溢れる、虚しさではない、神様の喜び、祝福を願い求め。
