幸せを受け継ぐ人 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ。富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる。正しい者が喜ぶときには、大いなる光栄があり、悪者が起き上がるときには、人は身を隠す。自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。うなる雄獅子、襲いかかる熊、寄るべのない民を治める悪い支配者。英知を欠く君主は、多くの物を強奪する。不正な利得を憎む者は、長生きをする。」

箴言28章10-16節

 

人は何か幸せを求め生きます。ただやっぱり世の中色んなことがあって、自分が思っていないところに落とし穴があったり、攻撃があったり。正しいと思って進んでみたら違う道だったり。だからいつも、本当に普通に生きる、楽しく生きる、というのが難しい。そういう意味では私たちは何が、どの道が正しい道なのか、よく見なければいけませんね。私たちは危険を避けるために、楽しく生きるためにいろんな本を読んだりして求めるでしょう?でも答えを見いだせない。でも一番忘れてはいけないガイドを見、聞くのを忘れていませんか?愛する人がその相手のために最大限を尽くすように、あなたをつくられた神様、あなたを愛する天の父なる神様は、あなたを大切に思い、生きてほしい、とその御手を伸ばされ、ある時だけではなくいつでも導いておられる。働かれている。確かに生きておられる方があなたを愛し、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに愛されている方があなたに幸いを受け継いでほしいと。あなたはこの本物の神様を見ていますか?その御業に信頼していますか?愛する神様の愛に答えていますか?主はあなたを今日も待っている。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された知恵・いのちのことばといいますか箴言で、これを聞いたソロモンが書き残したもの、そしてその約250年後、南ユダ王国王・ヒゼキヤが、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、この神様こそ神様なのだ、と一言一句変えることなく書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は愛するわが子、ソロモン、ヒゼキヤ、そして私たちに不幸になってほしくない、幸せになってほしい、神様が本来与えてくださった最高のいのち、その恵みに生きてほしいと願い、語られる、その知恵をもって、愛から来るその御心を現して下さるんですよね。神様がどんなに道がないと見える中にもその道を備えて下さる、その知恵、愛をもって切り開かれ導いて下さる。だから神様から離れないで、と訴えるわけです。

 

そんな神様はさらに続けて、その愛、御思いを、「正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ」と語られ、示されます。これ、この後半に神様の思いが込められていますね。わが子に、あなたに、幸せを継いでほしい、不幸になってほしくない、その思いが。神様は正直な人、神様を求め歩む者を不幸にされない、神様の幸せを継がせてくださるわけです。正直者が、神様に正直にいるものが、馬鹿を見ることをさせない。むしろそのような私たちを苦しめる、惑わせる、迷わせる様々なものを打ち砕かれる、報いて下さる事が見えてきますね。

 

この28章の前で、「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ。富はいつまでも続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ」と、また↑の前で「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」と語られていた言葉を見ましたが、確かに私たちの周りには私たちを押さえつけようとする、支配しようとする者がいる、でも羊である私たちを命がけで心配し守ってくださる羊飼いが心に留めてくださっている、この方に心を留めることを、義を行われる若獅子のように強いイエス様がいる、だからこのイエス様の義を求めよう、ということを見ました。まさにこの方がその義を、正しさを現される、その先に神様の幸いがある事が見えてきますね。

 

かつてモーセは「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない」と最後の遺言を残しました。

 

これは彼自身の教えというよりも彼が見てきた、神様がいつも示されていた事なのです。神様がいつも彼ら、私たちの前にいのちと幸い、死とわざわいを置いておられた、というのです。彼はいつも神様の御業を見てきました。神様が飲み水のない所に水をわき出でさせ、食べ物を毎日運んで下さった。普通に考えたら勝てないような戦いにあっても祈る中で神様がその力を注がれ、守られ、勝利させてくださった。でも災いって?神様が最初から私たちをわざわいに引き入れようとするわけではない。むしろ、↑で語られていた人が「自分の掘った穴に陥る」、それがまさにわざわいなのです。神様に従わないで、自分で考えた方法、自分の道を進もうとした人たちは約束の地、神様の恵みを受けることなく滅びていってしまった。ちなみに、モーセと一緒にエジプトから救い出された民の中で約束の地に入れた20代以上は2人だけ、他は神様に逆らい約束の地に入れなかった。それこそ、本当に地の底、穴に落ちて滅びた者たちもいたのです。

 

神様に従い生きる幸い、幸いを受ける歩みをするか、神様に従わず、自分の好きなような道を進んで、まさに結局死にゆくか…神様の望みは私たちが死ぬ事ではなく生きること、神様が備えて下さっている幸い、祝福、恵みを、いのちを受けてほしい、受け継いでほしい、それが望みなのです。神様も幸いを天地創造の時から備えて下さっていた、全ての良いものを。でもここには自分の幸せはないと離れて別の道を、神様のくださるものではなく、自分の目に麗しい果実、耳に良いことばに聞き入って従った結果、そのことば、甘い罠に陥り、罪、死が入ってきてしまった。そのように両親が子の不幸を願わないように、天の父なる神様は私たちに生きてほしい、幸せになってほしい、とその愛を働かせ、また御業をなして下さっている、良いいのちの内に招いて下さっているのです。それなのに、自分は自分だ、と言って穴を掘って堕ちてどうしましょう。

 

イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」と、私たちを幸いに招いて下さっています。幸いを受け継いでほしい、と。心貧しいということは、この神様をだからこそ求めるという事、神様は天の御国をここに現わしたい、そこに神様の幸いを現したい。他の何かを求めさまようことで一生懸命になって神様の幸いを見失ってはいけない、神様の幸いは今ここに、あなたに示されている、それなのにそれ以外のもので心を満たそうとする、神様では自分を満たすことはできない、と離れて本物の神様の幸いを失うことがあってはいけないのです。それを神様は悲しまれるのです。

 

「富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる」と↑で神様は示されていますが、私たちは本当に自分を富ませてくださる方が今一度よく思い返そう。あなたにいのちを与えてくださった方がどれだけ日々あなたを愛されているのか。自分は知恵があり、正しいから神様などいらない、神様の考えは自分には合わないと、神様を貧しいものとして思い込んではいないでしょうか。神様から離れているのに離れていない、自分は正しいんだ、と神様の幸いから離れて、神様の富を、幸いを失ってはいけない。

 

かつてダビデ王が自分の道が神様から離れていないか、神様の幸い、神様の用意されている最高のいのち、恵みを失っていないか、何か間違った道に進んでいないか、神様に祈っていました。自分の中の不安や不満も含め。そんな彼の残した詩の中に「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と。自分の心のゆえに、慢心だった理色んなものが王としてあったかもしれない。正しいと思って別な道を選んでいるかもしれない。でもそんな自分の道を神様が直して下さって、あるべき道、神様の本物のいのちの内に、日々に導いて下さい、と祈り歌いました。私たちが本当に正しい道を歩んでいるのかなんてわからない。でも分からないからこそ、神様の御心に耳を傾け、聴き、またこの声にへりくだり聞く、その中で神様は確かに私たちを本物の幸いへ導いて下さるのです。傷を癒し、聖め、あるべきあなたへ神様がつくり変えてくださるのです。

 

あなたが穴に陥る、滅びに向かうことを神様は望まない。だから神様は私たちを救うために、私たちの傷、痛み、何より罪、これによって本来神様の幸いどころか、怒り、これによって傷ついてしまったあなた、罪の呪い、死を招くところ、神様は私たちのこれら一切を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせてくださりました。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。神様と和解させていただき、まさにすべてが逆転され、神様の幸い、まことのいのちをいただけるのです。この和解された関係の中にあって神様の幸いが現わされる。このイエス様を求める、救いを求める、自分が罪の中にいたこと、いることを認め、立ち返る時、死という穴から引き上げられ、霊的に死んだだ穴から引き上げられ、本来の神様のくださっている幸いないのちの内を歩ませていただけるのです。

 

あなたはこの本物の幸いをいただいていますか?死の中に留まっていませんか?神様などいらない、と言って自分を神のようにしたり、他のものを神のように祀り上げて自分を富ませようとして。「正しい者が喜ぶときには、大いなる光栄があり、悪者が起き上がるときには、人は身を隠す」と↑で語られているように、私たちが本物の正しい者、神様を求める中に、神様の大いなる光栄が、幸いが溢れる、神様の喜びが、あなたへの愛が溢れるのです。

 

私たちは「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」とあるように、そむきの罪の内から離れ、神様の憐れみを求めよう。災いの中にもうとどまらず、神様のいのちを、幸いを、本物の憐れみ深い神様を求めよう。神様に背いて穴に落ち、本来の恵みを失ったはずの私たちの罪を御子イエス様の血潮によって覆い、捨てるのではなく救い引き上げてくださった神様の憐れみ、この内に込められた神様の御思いを疑うのではなく、求めようではありませんか。もうあなたをよみの穴に貶める声に心奪わせてはいけない。わたしにはあなたが必要です、あなたの憐れみをください、と。いつもこの方を正しく恐れる、遜ろう。うなる雄獅子、襲い掛かる熊にもうあなたを奪わせてはいけない。まことの英知ある君主、イエス様が今日もあなたを幸いにしようと、永遠のいのちへと招いて下さっている。私たちはこの方と永久にはなれることなく、いつも求め歩もうではありませんか。イエス様の幸いを受け継ぎ、いつまでもその幸いがあなたを覆い、さらに溢れ流れますように。

 

イエスが導く命と善