本当に良いものを追い求め | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する。寄るべのない者をしいたげる貧しい者は、押し流して食物を残さない豪雨のようだ。おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う。悪人は公義を悟らない。主を尋ね求める者はすべての事を悟る。貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。おしえを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる。利息や高利によって財産をふやす者は、寄るべのない者たちに恵む者のためにそれをたくわえる。耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。」

箴言28章1-9節

 

世の中を見回してみますといろんな情報が溢れています。これは良い情報だ、と思うものもあれば、ちょっとこれは良くないのでは?というものもあります。分かりやすくいい悪いが判定がつけばいいのですが、最近は困ったことに世の中の風潮に合わせて、その意見と反対の考えを持つと罵られる、間違っていると散々言われたり、罵倒されたりすることもある。右に倣え、左に倣え、前に倣え(政治の右左の話ではありません)、それ以外は○○だ、と。でもその声がもし間違っていたらどうしましょう。私たちを神様から引き離す者たちが現れてきた時に、このどこどこに倣え、それ以外はダメだ、という風潮になっていたら。私たちは本当に何が正しいのか、これを世に振り回されてあなたを失ってはいけない。神様はあなたをつくられ愛された、その天の父なる神様はあなたをわが子と呼び、その我が子のために御子イエス様のいのちさえ惜しまず愛し、注がれている。導いて下さっている。この方の声を聞き逃してはいけない。あっちが正しい、こっちが正しいではなく、そこまで愛し抜かれた神様が、今日も愛し導こうとされている、命を得てほしいとその御心を現されている、その道を示されている方の声に耳を傾け、その御あとをついて行こう。そこに確かにまことのいのちが溢れているから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け神様が語られ示された、知恵であり、いのちのことば・箴言、そしてこれを聞いたソロモンが書き残し、さらに約250年後、南ユダ王国王・ヒゼキヤが、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、どんなに周りが厳しくとも変わることのない神様の真理がここにある、と一言一句変えることなく書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、ヒゼキヤ自身もどんな状況にあっても神様の知恵を求める事から離れてはいけないことを学びました。神様を信じることを蔑まれることがあるかもしれない、でも最後に勝利するのは神様の知恵、みこころ、いや神様自身なんだ、だからこの神様を初めにも留める、蔑むのではなくどこまでも慕い求めることを訴えるわけですね、神様は。ソロモンに、ヒゼキヤに、そして私たちに。

 

そんな神様は、その愛、御思いをさらに続けて、「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する。寄るべのない者をしいたげる貧しい者は、押し流して食物を残さない豪雨のようだと語られ、示されます。そしてこれをソロモン、またヒゼキヤは記録に残すのでした。

 

これは私も仕事をしている時に実感する事であり、とある経営者と話をしていた時に彼らも指摘していた話です。彼らは聖書を読んだことがあるわけでもこの箇所を読んだことがあるわけでもない、けど事実として実感しているようで。というのも、ここにある通り、何か悪いことや、負い目のある人は、こそこそと裏で何かをしたり、あるいはいろいろ派手に動いてみたりして、自分の言っていることの実体がないことを隠します。一番わかりやすいたとえをするなら、嘘をついたらそれを隠すためにまた嘘で塗り固める。そして引き返せないところに来て、ついに明るみに出て厳しい判断が下される。仕事ならなおのこと厳しい裁定が出るでしょうね。嘘ではなくても、その経営者の人が言っていたのは、何か悪いことをしている(その会社で過去起こされた問題では)人は、それをごまかそうとして口がいつも以上に達者になったり普段しない行動をする、それは自分のその行動をごまかすためなんだ、と。まあ他にも自信がなくて、とかそういう理由もあるのでしょうが。でも、それは追う者もないのに逃げるのと同じだ、と神様はここで示すわけです。いつ捕まるか分からない、いつダメになるか分からない。そんな者になってほしくない、それが神様の思いなのでしょう。

 

でも、この「悪者」ということばは何も犯罪的な罪を犯した人のことだけ、後ろめたい何かをした人のことだけを指すわけではない、と思うのです。自分はそんな悪いことをしたことはない、とたぶん大概の人は思うでしょう。そもそも義人、もうまことに正しい人なんていないのです。信仰者パウロさえ、自分も含めて「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」と語りました。自分も義人ではない、とても悟りのあるものではなく神を求めるものではなかった、神様から迷い出て、無益な歩みをしていた、と。善を行っているつもりで神様を悲しませ、また隣人を傷つけ、あまつさえ救い主イエス様を迫害する者だった。それを罪人というわけです。何か犯罪を犯した人を罪人というのではなく。もちろん犯罪を犯した人も罪人ですけど、結局それは神様から迷い出た先に起こる事(人類初の殺人事件も、神様を疑い迷い出たものが起こした)。

 

そんな私たちが迷い出て、無益なものに追われる、不安なものに追われる、どうしたらいいか分からないから彷徨い歩く、そうしたものに私たちが追われることを神様は危惧されるわけですね。何に頼ったらいいか分からずさ迷う私たちに。実際にこのヒゼキヤの時代は腐敗と、腐敗を行っていたもの、また目の前には当時最強と言われていたアッシリヤ帝国が迫っていた。同胞北イスラエル王国は彼らによって捕囚されてしまった。このまま国が彷徨い出て死に向かっていく、そんな状況にあった。だからこそヒゼキヤは今この神様に帰ろう、とここで記録と共に誓う、祈る、またこれを記録に残したのです。私たちにも知ってほしい、と。今こそまことの義なる神様に帰るんだ、と。「しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」

 

確かにこのように確信をもって神様に導く人は本当に頼もしい、でもそれ以上に彼の内に働かれる本物の若獅子、義なる神様以上に頼もしい存在はないのです。自分を義とする、自分こそが正しい、正義だ、という歩みから神様の義を求める、神様の義に生きる、その時、「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」と↑で語られているような、次々に支配者が変わって安定しないようなところから、分別のある神様による安定した日々、いのちに変えられるのではないか。天にまで届く義が。その分別のある神様に分別をもって求めるなら。

 

イエス様は、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と、神様の義を求めることを仰られました。その神様の義が現わされるところに私たちが慕い求める喜びが、救いが溢れる。不安や恐れなど吹き飛び、神様の義に飢え渇く者に、神様の義で満たし幸いとしてくださるのです。さらに↑で、「寄るべのない者をしいたげる貧しい者は、押し流して食物を残さない豪雨のようだ」と語られていますが、寄る辺のない私たちを押し流そうとする勢力を神様のその御手が押し流し、神様の義、幸い、富で満たされる。私たちの寄るべとなってくださるわけです。

 

「おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う。悪人は公義を悟らない。主を尋ね求める者はすべての事を悟る。貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。おしえを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる。利息や高利によって財産をふやす者は、寄るべのない者たちに恵む者のためにそれをたくわえる。耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる」。私たちは何により頼んでいるでしょう?誰の義を求めていますか。自分の義を素晴らしいと褒め称えて押し通そうとして、神様の義を退けようとしていませんか?神様の義と、神様の御心と争うとして何を得ようというのですか。むしろ失うだけではありませんか。神様のやり方、みこころは自分に合わないから、と他のものに明け渡してあなたを奪わせてどうしましょう。たとえ、そんなことを信じて何になる、従っても自分は全然いい目を見ないじゃないか、と言いたくなるような時があるかもしれない。でも神様の愛を捻じ曲げて押し通しても結局、神様の恵みを、神様の義を、神様の正しさ、神様の御心を得られない。もったいなすぎるじゃないですか。

 

放蕩者と交わる、まあ滅多にないでしょうけど、それはあなたの大切なものを失わせるでしょう?同時に私たちの魂を奪う、放蕩させようと、神様の義から引き離そうとする様々な人、考え方があっちこっちにある。でも、それによって神様があなたに成そうとしていることを失う、放蕩させられてどうしましょう。偽りものや考え、自分の義によってどんなに富んだつもりになってもそれはいつかは失うし、何よりそれは神様の計画から離れた、とてもとんでいるとは言えない。私たちは本当に神様の義を、目をしっかり向け、耳を傾け聞いているだろうか?世のものと、自分の義と並べて比べて、今自分に都合のいいほうを選ぼうとしていないだろうか。

 

「義人は信仰によって生きる」。アブラハムという人について神様は「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と評価されました。ただ神様を信じる、それが実は最も重要。あれは信じるけどこれは信じない、ではなく。神様はご自身の愛を、義を丸ごと私たちに現したいのです。

 

しかしそれでも神様を義とせず離れる、ある時は義とするけどある時は認めない、そんな私たちを神様は本来見捨てる…事をしなかった。神様はご自身の義を信じるすべての人に与えられます。そこに差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神様からの栄誉を受けることができず、ただ、神様の恵みによって、イエス様による贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神様は、イエス様を、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。このイエス様に、私たちの思い煩いや差し迫るもの、何より罪、一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたことで。そしてこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改める、救い主として信じ受け入れる時、私たちは義とされる。この方の義によって私たちを追おう様々なもの、罪の呪いなどを振り払われ、神様の子として受け入れられるのです。今やこの神様の義が私たちを覆うのです。

 

私たちはこの神様の教え、義をどれだけ求めていますか?いや、これだけ愛し抜かれたイエス様を義として受け入れているでしょうか?命をかけてでもあなたを救うことを選ばれた、このイエス様が成される義を求めず何を求めましょう。今日私たちはこのイエス様の義に生きよう。このイエス様の義が覆った、その血潮がすべてを洗い聖め、新しくされた本物のいのち、義の内を歩もうではありませんか。

 

箴言「正しい者は若獅子のように」