「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、海の真ん中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。『私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。』」
箴言23章29-35節
人には「何かで満たされたい」という思いがあります。それを満たすために様々なものを求める。恋人であったり、仕事であったり、趣味であったり、お酒であったり?でもそれは一時的には私たちを満たすことができても、いつまでも続かない。そして虚しや忘れたい痛みがぶり返してくる。お酒を全面的に否定するわけではありませんが、お酒自体は私たちを助けたり、平安を与えることはできない。でもそんな不安に支配されるのって辛いですし、その不安や一時的に満たすものに、私たちの行く末や人生の舵を取らせるなんてもったいない。ただ神様は私たちを黙って見ている方ではなく、救われる方です。遠い存在ではなく、私たちと同じ人となって御子イエス様を生まれさせてくださり、イエス様が私たちの間に住まわれ、そのイエス様を通してご自身の愛を完全に現されました。一時的な解決や癒しではなく、私たちを丸ごと取り戻し、救うべく、御子イエス様を身代わりに死なせてでもあなたを死の底から、嵐の中から救い出された。そこまでされた方が今日、あなたの内側を本物の愛で、喜びで、平安で満たしたい、そこまでされた方が今日あなたを守られ導かれている。今日私たちはこの方に委ねよう。あなたを酔いつぶれるほどどん底になる、どうにもならずに倒れた私たちを救い出そうとその御手を主が伸ばされているから。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られたいのちのことば・箴言で、私たちに命を得てほしいという神様の愛から示されたもの、そしてこれを受けたソロモンが私たちに書き残し示されたことばになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちを思ってくださっているんですよね。誰かに思われているって素敵だと思いませんか?神様は私たちを支配したいからではなく、天の父なる神様の創られた私たちをわが子と呼んで下さって、その我が子のためにその愛の思いから良いものを語られ示される、語るだけではなく、その思い・知恵、御心を現して下さる、神様が私たちの人生をその愛で飾り、満たして、良いものにしてくださる。
そんな神様はその愛・知恵をソロモンに示し、それを受けた彼は応答するように箴言をさらに残していくのですが、↑では「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ」と書き残します。ワインといいますかお酒が好きな人にはちょっと厳しいことばに聞こえるかもしれませんね。
それでこのことばの本質を見る前に考えたいのですが、神様はお酒やワイン、そうしたもの自体を否定しているのか?と言われるとそうではありません。ぶどう酒、「ぶどう」と「発酵」、いずれも神様から来るものです。神様がぶどうをつくられ、その発酵の原理も神様の御業によるものです。そのぶどう酒は捧げものとしても用いられていましたし、イエス様も最後の晩餐で、自身の象徴のためとはいえ、ぶどう酒を弟子たちと共に飲み、分かち合いました。また、パウロも「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」と勧めたほどです。そのお酒を通して神様が働かれることもあるわけですね。いや、お酒・ワインを超えてその神様との交流の中で本物の喜びをもたらして下さるわけです。その神様のお働きが熟して。
この箴言を残したソロモンの父、ダビデ王も様々な苦労、嵐に見舞われながら、いつも神様の助けがあり、時には友人を与え、普通に考えたらあり得ない勝利を治めさせてくださったり、守られていたことを実感した彼は「主はその高殿から山々に水を注ぎ、地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。人が地から食物を得るために。また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。油によるよりも顔をつややかにするために。また、人の心をささえる食物をも」と詩に残しました。ぶどう酒や食べ物、また地に植物を生えさせるなど、神様の働きを通して、私たちの心は喜びで満たされ、また顔をつややかにしてくださるわけですね。
そう、お酒・ワインの良し悪しが問題なのではなく、全ての良いものは神様から来る。私たちは自分を満たそうと様々なものを求める、自分を酔わせ、現実を忘れる、疲れをいやす、そうしたものを求めますが、そもそも神様が私たちを力づけ、元気にしてくださり、導いて下さるんですよね。神様の良い業が私たちの内に、先程のダビデの詩のように良いものを生えさせ、実らせてくださる。満ち足らせてくださるわけです。お酒云々の問題ではなく、この神様を私たちが求めているかどうか、そこなのです。
こうして考えますと、↑の「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ」という言葉の意図が見えてくるのではないでしょうか。自分の痛みや嘆きから浴びるように酒を飲む、飲みあさる、混ぜ合わせた酒・酔って色んなものを混ぜ合わせたり、もっともっとと酒を求め、味さえ分からなくなるほどになる、酒に身を委ねて自由奔放、快楽に走る、その結果何か良いものを得られるのか。時には争い、喧嘩、それによって災い・飲酒運転や暴力、目も当てられないことを起こして酔いがさめて忘れているなんてこともある、自分が思うところと違う方向に行ってしまうわけですよね。下手をしたら争い云々どころか、私たち自身が嘆きを受ける可能性、ゆえなく傷を受ける可能性だってあるわけです。それを仕掛けてくる世の勢力や人はいくらでも世の中います。
その中、本物の喜びを与え、満たして下さる神様を私たちは見ているでしょうか、求めているでしょうか。色んなことに不平不満を言いたくなることはある、でも神様は不平不満をもたらすことをするのではなく、私たちの不平不満を満足、満ち足りたものへ変えてくださる。争いを平和に、混ぜ物ではない純粋な、確かな神様の愛を私たちに現して下さる方なのです。あなたを惑わしたり、迷わせたり、不確定、不安定な嵐の中を進ませるのではない。その支配で、嵐で苦しめ、悩ませ、下手をしたらしずめさせるかもしれない、ゆえない傷を負わせて来るかもしれない、そんな状況から神様は救い出して下さる。
かつてイエス様が遠くから見ているのではなく、人となって生まれてこられ、同じ重荷を背負い、その同じ時代を歩まれたように、時には嵐の中、同じ船に乗って一緒に進み、嵐を静めてくださったように、病をいやされたように、ゆえなく差別され、見捨てられているような人さえ愛を注がれ、そのような支配から、神様の愛の内に招いて下さる。神様は無責任にあれこれ語るのではなく、その語られたことを、愛を具体的に現される、その愛の関係に私たちを招いて下さるのです。適当に世の中と妥協させたり混ぜ合わせたようなあいまいな愛、価値観ではない、確かな愛をあなたに現されるのです。酔いたくなるような状況、辛い中にあってもそれを喜びに変えてくださるのです。
「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、海の真ん中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。『私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。』」と、さらに↑で語られていますが、美味しそうに見えるワイン、様々な世の誘い込み、サタンが偽情報を流し見せ、アダムとエヴァを罪に誘い込み、神様の愛から、嵐の海に誘い込んで死にもたらしたように、そうしたことはたくさんある。でも、そんな時に海の上で寝て、帆柱の上で寝てどうしましょう。酔っぱらってそんなところで見張りをするのですか?飲酒運転云々のレベルの話ではないほどあなたの人生にとんでもないものをそれではもたらします。危険と気づいた時には沈んでしまうだけ。
しかし、神様は私たちに本物の喜びを、希望を与えるため、御子イエス様を私たちに与えてくださりました。私たちを救うため、このいのちを荒らし、死の底から救い出すために人となって生まれて来てくださりました。このイエス様が私たちの間に住まわれ、その愛を惜しむことなく与え、注がれ、癒し、私たちの行く道を示して下さった。でもそれだけではない、私たちを一時的に癒して、はい終わり、後は頑張ってね、ではなく、この嵐、死の波、世の思い煩い、罪、これら一切から救い出すべく、イエス様が身代わりに十字架でその罰を、波をかぶられ、死なれた、その十字架で身を引き裂かれ、血を流され、死なれたのです。このイエス様の十字架に現された救いをいただく時、私たちがこのイエス様の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちは命を得る、救いをいただくのです。罪赦され神様の子とされる、神様の愛の流れの中、神様の御働きの中、私たちは生きるものと変えられるのです。この方が、私たちの帆柱の上に立って導いて下さる、舵を取って、たとえ酔いたくなるような状況にあっても、嵐が襲い掛かるような時もそれを静め、導いて下さる、神様の栄光・素晴らしさに連れて行ってくださるのです。その身を張ってでも私たちを救われたイエス様が、いのちを惜しまなかったイエス様が。
私たちは不安定な海の上、帆柱の上・もといロープの上という不安定な場所で寝るのではなく、この神様のもとに身を委ねよう。主があなたを休ませてくださるから。「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ」と酩酊している場合ではない、もうあれもこれも忘れよう、とあれこれに走るのではなく、↑でいう色んな価値観を混ぜ合わせた訳の分からない物に身を委ねるのでもなく、あれもこれも「神様の喜びに変えてくださる」この神様の知恵、導き、御業に私たちは委ねようではありませんか。
イエス様は約束されます、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」、と。この約束の聖霊様が今私たちに与えられています。イエス様の十字架、死と復活の故に与えられたこの新しい聖霊様が私たちに今日平安をもたらそうと働かれている。世のものではない、完全な愛が。世に心を騒がせ、惑わされることなく、この聖霊様に酔う、満たされ今日も歩もうではありませんか。イエス様の平安がここにある事を祈り願い。

