「『…それなのに、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。しかし、わたしはわたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。だが、わたしは、わたしが与えた、乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に彼らを導き入れないと荒野で彼らに誓った。それは、彼らがわたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてを踏み行なわず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。それでも、わたしは彼らを惜しんで、滅ぼさず、わたしは荒野で彼らを絶やさなかった。」
エゼキエル書20章13-17節
人はだれしも自分の大切な人が不幸な目に合うことを望まないでしょう。望というなら、その思いや関係って本当に大切な関係だったのか、と思うところですが。むしろその人の幸せを願うのではないか、と思う。神様は、私たちをつくられ後は好き放題していいよ、とは仰らず、むしろ神様ご自身が私たちの生きる道を示されます。神様のことばが私たちの道を開き、またその恵みで満ち溢れさせようとしてくださる。あなたを愛するがゆえに、あなたをとらえる様々なものを打ち砕き、もう一度神様の霊で、愛で、全てで満たそうと、御子イエス様のいのちを身代わりに差し出してまでもあなたを愛することを決断された神様が今日あなたを導かれるのです。世の中色んなことがあろうとも、それでもあなたにその愛を注がれている神様に信頼しよう。この方の愛に、恵みに、なさることに勝るものはなし。
さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚の際に、捕囚されたイスラエルの民に向けて、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きです。↑ではBC591年、第2次バビロン捕囚により完全に国が崩壊するまで5年と迫っている段階にまで迫っています。すでに危機は迎えている中で神様は、それでもご自身がおられること、ご自身を現し、彼らに生きてほしい、と願って、その御手を伸ばされ愛を注がれていることを、幻やなぞかけ、直接的な訴えなど、様々な形で語られてきました。それこそ↑の少し前の章で語られていた、へその緒さえ切ってもらえず、野に捨てられていた、血だらけの裸の赤ちゃんを神様は抱きしめ、生きよ、生きよ、と何度も励まし温め、ご自身の家族に招いてくださったその姿を見せ、思いを示されましてきました。そうして私たちに神様の霊によってもう一度生きたものになってほしい、と。
そして今、↑で神様はイスラエルの民に向け、また私たちに向け、自分たちが何者であるのか、それを彼らの先祖イスラエルの内に神様がどのように働かれてきたのかを振り返りながら神様は示されます。↑の前までで、神様は本当に小さなものだったイスラエルの父祖にあたるアブラハムに目を留め、見捨てるのではなく、気にも留めないのでもなく、愛することを選ばれ、彼のいのちに神様が介入、いや神様ご自身の恵みの内に移されることによって祝福されていきました。厳密には、さらに彼を通して全世界にその恵みが溢れること、その基とアブラハムという人を、イスラエルを選ばれていたのですが。
そう、このイスラエルの民の話は昔の話やどこか遠くの人の話ではなく、この彼らに働かれた神様は私たちにも同じ愛を注がれている、無関係ではない、そのことを忘れないでください。神様は私たちと無関係なのではなく、むしろ同じ神様があなたの内にも同じように愛を現そうとしている。無関係な存在、私たちに目もくれないのではない、むしろへその緒さえ切ってもらえず見捨てられていた赤ちゃんの話ではありませんが、そんなあなたさえも抱きしめ、ご自身の愛を、お母さんが産んだ赤ちゃんを抱きしめ愛を注ぐようにあなたにも神様はその全てを注がれるのです。あなたをつくられた神様とあなたは見えないへその緒で繋がっているのです。
↑の前でそんなイスラエルの民が400年近くの間エジプトで奴隷とされていた中で、神様は彼らを忘れず、祝福され、彼らの先祖に与えると約束されていた地に今民を導こうと連れ出されたことを見ました。その道中さまざまな戦いや、食料の問題などあった、しかし荒野、荒れ地に見える中で神様ご自身が共に進まれ、荒れ地のような彼ら、私たちの人生を満たされ、養われてこられたことを見てきました。
ところが↑で触れられている「それなのに、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた」と言わるほどの大事件をイスラエルの民はその道中で起こします。
一つは金の子牛事件。ある時出エジプトのリーダーとして選ばれていたモーセが神様に山に呼び出され語らっていた時に、あまりに帰りが遅いから、とイスラエルの民はモーセの兄に「自分たちの神」を「造る」ように迫ります。アロンはアロンでなんと何の躊躇もすることなくそれをつくり、これがあなた方を救った神だ、と言って拝ませ、ついには淫行を伴う祭りまでさせる始末。神様はその山の中でモーセに、十戒の板と共に、神様ご自身が彼らの内に住まわれること、働かれ、彼らの内にその愛を現そうとしている計画を離されていたのですが、民は全く逆で、自分たちの都合のいい神をつくり、まことの神様を彼らの内から締め出した。
これ、私たちも本当に陥りやすい問題です。私たちは自分は自分、といって神様が自分に介入することをあまり好まない。自分の都合に合わないことはその語られる言葉を締め出す、自分の望むことをしてくれない神様など神様ではないと締め出す。そして自分の都合のいいことばだったり、ルールだったり、自分の神を置く。下手をすれば自分が神となる。しかし、先ほどのアロンたちの姿のように結局私たちはそれらによって踊らされ、神様の造られた本来の姿、最高傑作であるあなたを傷つけてしまうだけです。
この神様の語りだしの最初、神様は彼らを選ばれた、と仰られた、その事をもう一度彼らに、また私たちに神様は訴えるのです。神様に愛される、愛されている、何という恵みだろう。世が私たちを支配するのではなく、神様の霊が、愛が、神様の全てが私たちを覆っていて、私たちを生きたものとしてくださっているのです。神様の口から出る言葉、約束、その働き、神様の全てによって私たちは今日生きているのです。神様は私たちを幸せにしたいとご自身を現して下さっている、どこか遠くではなく、共に住まわってくださっているのです。
実はこの時神様はそれでも悔い改めの機会を与えてくださっていたのですが、悔い改めなかった人たちは残念ながら死を迎えることになりました。しかし神様はあなたに生きてほしい、と招かれていた、それなのになんと残念な話ではありませんか。
それはもう一つ起こった事件でもいえた話です。イスラエルの民がようやく約束の地についたとき、彼らは神様に言われ偵察に出ます。神様が与えてくださった地がどれだけ良いものなのかを神様は見せようとしたのです。そして大の大人2人で担がなければならないほどの大きなぶどうを収穫したりと、その地は神様が仰られていたように確かに乳と蜜の流れる地、神様の恵みが溢れる地、世的な言い方をすれば肥沃な大地だったのです。偵察に出た12人の内ヨシュアとカレブという人は、ぜひ喜んでこの神様のくださった地に入ろう、と神様の見せてくださった収穫物と共に民に伝えます。しかし、他の10人は、当時その地に住んでいた巨人族に恐れをなし、攻め入るべきではない、これならエジプトや荒野で死んでいた方がよかった、と言い放つ始末。
いったい彼らは神様の何を見てきたのだろう。エジプトから救い出され、荒野においてもいつも共に進まれすべてを守られてこられた、その神様が住まわせてくださる場所、いや神様がおられるのに何を恐れる必要があるのだろう。その巨人が神様に勝ることなどできるだろうか。神様が与えてくださったいのち、主である神様がおられる中に何を恐れる必要があるだろう。
結局この彼らの助言により約束の地に入るべきではない、とヨシュアたちを石打にしようとしていた者たちは、約束の地に入れなくなります。ヨシュアとカレブ以外の20歳以上の成人のものはみな約束の地に入れず、この荒野で死にゆくこととなりました。ヨシュアとカレブ、そして20歳以下の人たちは40年後再び約束の地に入ることになります。神様はそれでも彼らを見捨てていなかった、↑で語られるように、その葛藤を持ちながらそれでも彼らを愛すること、絶やしつくすことは望まなかった、と訴え、彼らが約束の地に再び戻ってくる間も、彼らと共におられ、守られたのでした。
2つ目の事件にしても、本当に民はなんともったいない。彼らは自分の慕い求めるものを探し求め彷徨う。恐れに支配され、巨人が彼らの人生に立ち向かおうとも神様はその恐れを打ち砕き、神様の恵みで、安息で、いのちで満ち溢れさせようとした、その本当のいのちの内に招こうとしていたのに、彼ら、私たちがそれを汚してどうしましょう。神様は、愛する我が子、へその緒で繋がっていたあなたを愛し、母がへその緒から生きるのに必要なすべてを与え、その後もへその緒が切れた後も愛情が注がれるように、神様と今も見えないへその緒で繋がった私たちに神様の聖さ、愛を、全てを注いでくださっているんですよ?神様の下さった命を蔑ろにするなんてもったいないじゃないですか。
神様は、神様の名を呼び求める人に、「わたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう」と約束される。どんなに世の中荒み、どうしたらいいのか分からない、しかし神様の愛がそこに現される時、神様が住まわれる時、そこは癒されるのです。私たちは神様の与えてくださる本物の癒し、いのちをどれだけ求めているだろう。
神様は、本来この時のイスラエルの民のように見捨てられてもおかしくない、神様を神様ともせず自分の内から追い出し歩むような私たちを見捨てる事だってできたでしょう。しかし神様はそれでもあなたをもう一度癒し、ご自身の内に招くため、私たちのこの抱える思い煩いや痛み、恐れ、何より罪、一切を打ち砕くため、これらを私たちの身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、これらに完全に勝利され、打ち砕かれたのです。私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちも同じこの復活の恵みに与り、癒される、新しくされる、神様の息吹が、霊が私たちの内に満ち溢れるのです。
「人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」。私たちは今日、虚しいものを愛することをやめ、神様を慕い求めよう。神様がこのイエス様にあって特別に扱われる、いや本物の愛に今日生かされ歩もうではありませんか。このイエス様のいのちにあって無駄なことなどひとつもない。このイエス様のくださる一つ一つの恵みに生かされ、今日歩もうではありませんか。
