―今もあなたと一緒にいるから― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…あなたはイスラエルの君主たちのために哀歌を唱えて、言え。あなたの母である雌獅子は何なのか。雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。雌獅子が子獅子のうちの一頭を育て上げると、それは若い獅子となり、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。彼らは鉤でこれをエジプトの地へ引きずって行った。雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。これも、雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。この獅子は人のやもめたちを犯し、町々を廃墟とした。そのほえる声のために、地と、それに満ちているものはおののいた。そこで、諸国の民は、回りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。彼らはそれを鉤にかけておりに入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれをとりでに閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。…』」

エゼキエル書19章1-9節

 

人は元気な時もあれば孤独だったり、疲れたりと、元気じゃない時もあります。一人でやっていけるよ、と思ってもそういうどうにもならい時もあるから一概にそうとは言えないんですよね。結局人は一人では生きていけない。誰かの助けがあって今日、ここにいるわけです。神様がそこにおられる。神様の時の中、神様の中で私たちは今日生かされていること、この神様がすべ治めてくださっていることを忘れないで。神様はあなたの声を聞いておられるから。どんな時でも神様を呼び求めよう。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方があなたに今日もその愛を惜しむことなく注がれている。

 

さて、↑は紀元前に起こった、歴史でも有名な紀元前にあったバビロン捕囚、その際バビロンによって捕囚されていったイスラエルの民に向け、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きです。神様は、ここまで、それこそ第1次捕囚から始まり何年にもわたって多くの幻や預言を通して民に、その御思い、ご愛を幾度となく訴えてきました。↑の少し前の章では、へその緒さえ切ってもらえず、野に捨てられていた、血だらけの裸の赤ちゃんを神様は抱きしめ、生きよ、生きよ、と何度も励まし温め、ご自身の家族に招いてくださったその姿、思いを示しながら、神様はそれでも見捨てていないことを示されました。神様はそうして彼ら、私たちに、生きてほしい、生きよ!とご自身の戸、天の窓を閉ざすことなくその恵みを注ぎ続けていたのです。傷つき倒れた彼らをそれでも愛し、抱きしめ、癒そうと。

 

そんな彼らに向けて神様は↑の前で、誰かのせいとか、因果応報的ではなく神様のおかげさまで生かされている、神様の義・愛を求める中に生きることを示されてきました。そして「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。…悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ―だから、悔い改めて、生きよと」訴えました。ここに神様の全ての思いが込められたのです。

 

神様はさらに↑でエゼキエルに哀歌を唱えて言うように命じます。それは、「あなたの母である雌獅子は何なのか。雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。雌獅子が子獅子のうちの一頭を育て上げると、それは若い獅子となり、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。彼らは鉤でこれをエジプトの地へ引きずって行った。雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。これも、雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。この獅子は人のやもめたちを犯し、町々を廃墟とした。そのほえる声のために、地と、それに満ちているものはおののいた。そこで、諸国の民は、回りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。彼らはそれを鉤にかけておりに入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれをとりでに閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした」というものでした。

 

雌獅子だの雄獅子だのと出てくるのでわかりづらいかと思いますが、これは動物たちの話ではありません。神様は今第2次バビロン捕囚を迎えようとしているゼデキヤ王が先の王たちが神様から離れエジプトやアッシリヤ、バビロンに苦しめられ、捕らえられていった、その中に神様が生きる道をいつも示し続けた姿を知りながら、ゼデキヤ王はなお神様に逆らい続けとこしえに続くと言われていたダビデの王座が失われていく、そのことについての哀歌が↑になります。今その歴史、現実の中に神様はいない、と考えるかられに、神様ご自身がその思いをエゼキエルを通して語られるのです。これは私たちにとっても力強いはげましです。

 

まず、「あなたの母である雌獅子」と出てきますが、これは南ユダ王国です。彼らは「雄獅子、若い雄獅子」いわゆる当時の列強国であるエジプトやアッシリヤ、バビロンに囲まれていました。その中で子獅子は養われ育てられていくのですが、その子獅子の一人エホアハズは人を死に至らしめる罪、実際的な悪事、また神様から民の心を引き離し、あらゆる意味で死に向かわせたゆえに、エジプトに捕らえられ、エジプトの王は代わりにエホヤキムを王としてたてます。そのエホヤキムの死後、エホヤキンが王となりますが、彼はエジプトの衰退後、バビロンにとらえ移されますが、王が変わった後に恩赦を受け、解放され、いつまでも王の食卓に着くことを赦されました。残念ながら彼自身はバビロン捕囚から戻ることはできませんでしたが。

 

それにしてもなぜ、神様は直接的ではなく、獅子とか色んな表現をして哀歌をうたわせたのだろう。この獅子という表現は、2つの意味を持ちます。1つは先ほども申し上げました通り、南ユダ、といいますかユダ族を現します。かつてイスラエルの父祖と呼ばれたアブラハム、その子孫のイサクの子、ヤコブの子の一人がユダ、彼に対して、ヤコブは死の間際、神様に導かれ、「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う」と預言します。力強い獅子の子。そしてこの預言、↑の哀歌の前半で語られている様子と同じですよね。ただ周辺国によるのではなく、神様に身を伏せ、神様が離れず守られる。養い育ててくださる。神様のその恵みは離れることはなく、ついには彼の子孫から救い主イエス様が生まれ出、全てを治めるようになる、と語られました。

 

そうすると2つ目の獅子の意味が見えてくるでしょうか。神様自身も獅子に例えられることが聖書の中であるのですが、まさにその出どころはここであり、力強い獅子なる神様が、その子獅子イエス様が彼らの王、救い主として治めてくださるのです。神様はこの本物の獅子なる神様が私たちの中に住まわってくださっているんだ、ということを彼らに歌っているのです。誰か一般的な強い存在ではなく、神様ご自身が王としてあなたを守っているんだ、と。それなのにその神様から離れて、自分の思うがままにさせてくれるであろうものを求めさまよっても結局彼ら、私たちの魂はとらえられ、奪われるだけ。そんなことをだれが喜ぶだろう。

 

何より、私たちはこの神様の「子獅子」と表現していただいている存在であることも見落としてはいけません。神様が私たちの内に働かれる、生きている、養ってくださり、守っていただけているからこそ「獅子」、弱くとも強いと言える、貧しくとも豊かだと言えるそんなものに神様がしてくださるのです。獅子なる神様の子としてくださるのです。↑で「待ちくたびれ、自分の望みが消えうせ」る彼らの姿が歌われていますが、神様はあなたの望みとなる方なのです。世の中に抱いていた希望はいつかはついえる、しかしそもそもの話がこの天地万物をつくられ、あなたを造られたのは神様、世があなたの親なのではない、この神様があなたの父なる神様となられ、あなたを子として守ってくださるのです。この神様こそが主、あなたの希望の源なのです。これを今、哀歌を通して神様訴えるのです。

 

神様が私たちを子と呼んでくださる、神様の終わることのない国、神様ご自身の内に住まわせてくださるとはなんという恵みだろう。それこそ数章前に神様が、へその緒さえ切ってもらえず見捨てられていた赤子を、生きよ!と言って抱きしめてくださり、ご自身の全てで覆ってくださりその家族に子として招いてくださったように、あなたを造られた神様とあなたのへその緒は切られてはいけない、いや自分で切ってはいけない。この現実どうなっているんだ、と思う中に神様とのへその緒は見えずともつながっているのです。この天地の造り主、あなたを造られた神様が確かに今日あなたと共にいる。これ以上の希望がどこにあるだろう。

 

私たちは誰に伏しているだろう。この神様と生涯共にい続けることを選んだダビデは「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」と、また「たといその人が倒れても、 全く打ち伏せられることはない、 主がその手を助けささえられるからである」と歌いました。神様の御前に伏せる時、私たちは神様の導かれる場所へと連れて行っていただける。私たちの魂まで生き返らせるような、義の道へ。世の道ではない。神様が助け起こして導いて下さるのです。

 

神様はこの愛を御子イエス様をもって実行に移されました。まさに子獅子、神の御子イエス様を私たちの身代わりに死に取らわせたのです。私たちの間に住まわせ、その愛を現して下さり癒して下さっただけではなく、私たちの本物の救い、魂の癒しのため、何の罪もないイエス様に私たちの重荷も痛みも、何より罪も一切身代わりに背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせたのです。そうしてこのイエス様の十字架の愛をまず現わされたことで、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎えていただけるのです。獅子どころではない、神様の。私たちは3日目によみがえられたイエス様と同じ恵み与らせていただけるのです。

 

今日、私たちはこのイエス様の御前にひれ伏そう。委ねて良いんです。復活のイエス様が今日あなたの間に住まわれている。この方が義の道、世の道ではなく、死の道からいのちの道へ、今日あなたを招かれています。本物の王はあなたのためにそのいのちさえ惜しまず与えてくださりました。今日私たちはこの方の御あとをついていこうではありませんか。どんなに世の中が暗く見えようとも、私たちに消えることのない本物の光を照らされたイエス様が、あなたを死に至らしめるのではなく、神様の恵みに至らしめる共にいて、あなたを導かれるから。