―あなたに知ってほしかった愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「次のような主のことばが私にあった。『人の子よ。イスラエルの家になぞをかけ、たとえを語り、神である主はこう仰せられると言え。大きな翼、長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲が、レバノンに飛んで来て、杉のこずえを取り、その若枝の先を摘み取り、それを商業の地へ運び、商人の町に置いた。ついで、その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに、柳のように植えた。それは生長し、たけは低いが、よくはびこるぶどうの木となった。その枝は鷲のほうに向き、その根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を伸ばし、若枝を出した。さて、もう一羽の大きな翼と豊かな羽毛を持つ大鷲がいた。見よ。このぶどうの木は、潤いを得るために、根を、その鷲のほうに向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっている所から、その鷲のほうに伸ばした。このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、水の豊かな良い地に植えつけられていた。神である主はこう仰せられると言え。それは栄えている。しかし、主はその根を抜き取り、その実を摘み取り、芽のついた若枝をことごとく枯らしてしまわないだろうか。それは枯れる。それを根こそぎ引き抜くのに、大きな力や多くの軍勢を必要としない。見よ。それが移し植えられたら、栄えるだろうか。東風がそれに吹きつけると、それはすっかり枯れてしまわないだろうか。その芽を出した苗床で、それは枯れてしまう。』」

エゼキエル書17章1-10節

 

人に何かを伝える時には、色んな方法があります。手紙だったり、詩であったり、たとえであったり。難しい話、聞いたことがない話をするときなどは、少しわかりやすいように、たとえをもって話したりします。まあたまにそのたとえが的外れだったりして、かえって伝わらないこともあったりするのですが。まあいずれにしても、相手に知ってもらいたい大切なことがあるなら、心を尽くして何かをするのかな。神様は、私たちに本物の愛を、救いを、いのちを知ってほしい、与えたいと、どこか遠くにいるのではなく、私たちの最も身近な存在となられた、人となって生まれてこられ、その間に住まわれ、彼・私たちと同じ重荷を背負いながらその愛を現し続けました。語ることを、愛することを諦めず。その愛はご自身のいのちを惜しまないほど。その命がけのイエス様の愛を私たちはどう受け止めているでしょうか。

 

さて、↑は紀元前に起こったバビロン捕囚期、バビロンに捕囚されていったイスラエルの民に向け、神様が預言者エゼキエルを通して語られた預言・ことばの続きになります。神様はこのバビロン捕囚の前からずっとイスラエルの民に、いやこの人類、私たちすべてとの時間を持ち、語り、その愛を実際に現してきました。それこそアダムとエヴァに始まり、神様は「見よ、それは非常によかった」と仰られるように、私たちの目には色んな状況にあっても神様は非常によいものを現して下さっていたのです。バビロン捕囚という苦難の中にあっても、天の窓は開かれ、確かに神様の御業は現されていたのでした。だ残念ながらイスラエルの民は神様のこの愛、神様の御業よりも世のわざを求めていた。そして彼らの影響を受け、神様のとの関係を傷つけ、ついにはバビロンによって囚われてしまったのでした。

 

ただ神様は人を愛することをやめなかった、見捨てていなかったのです。前の章の中で神様が示された、へその緒が切られないで捨てられていた赤子を見て黙って通り過ぎるのではなく、抱きしめ、きれいにし、着飾り、家族として迎え入れてくださっていましたね。そうして神様は私たちに、生きよ、生きよ、と訴え続けるのです。その愛を、親が我が子を自らを省みず愛するように、誰しもが裏切っても神様は見捨てなかったのです。あなたを神様ご自身の愛に引き寄せ、その家族に繋げようと招いてくださっていた、もう一度回復させようとその御手を伸ばされていたのでした。

 

神様はへその緒さえ切ってもらえず見捨てられていた赤ちゃんを抱きしめて迎え入れた、その愛をまだやめてはいません。今度は神様は彼らの現状を、「人の子よ。イスラエルの家になぞをかけ、たとえを語り、神である主はこう仰せられると言え。大きな翼、長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲が、レバノンに飛んで来て、杉のこずえを取り、その若枝の先を摘み取り、それを商業の地へ運び、商人の町に置いた。ついで、その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに、柳のように植えた。それは生長し、たけは低いが、よくはびこるぶどうの木となった。その枝は鷲のほうに向き、その根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を伸ばし、若枝を出した」とたとえをもって語り始めます。

 

なぞをかける、ということで少し解説する必要があると思いますが、二羽の大鷲は当時の二つの大国を指しています。一つ目はバビロン、そして二つ目はエジプトです。その若枝は南ユダの王で、初めに摘み取られた若枝はエホヤキン王、その次にぶどうの木から出てきた若枝は南ユダ最後の王ゼデキヤです。それでまず、エホヤキン王が、「大きな翼、長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲」と言わしめるほど強大な力を持っていたバビロンによって捕囚されることが語られます。

 

ここで「レバノン」と表現されていますが、ソロモンの時代建てられたエルサレム神殿は、このレバノンの王からもらったレバノン杉によって建てられていた、「レバノンの森の神殿」と言われるほどのものでした。ソロモン王の時代もそうですが、それ以上に神様はエルサレムを、イスラエルを美しく彩ってくださっていたのです。前章で見ました、へその緒さえ切ってもらえない、血で汚れてしまった裸の赤ちゃんを抱きしめ、服を着せ、美しい女性に育て上げた、というような表現がありましたが、まさに神様はそのように民を祝福され、また愛されていたのです。

 

そんな彼らがバビロンに捕囚されていく、そのすでに起こったことを神様はあえてここで告げられたのです。わからず屋だからもう語らない、ではなく、神様は思い起こさせるのです。あの捨てられた赤子のようだった彼らを生きよ、生きよ、と繰り返し語りかけ、抱きしめ、温め、家族に迎え入れてくださった神様は今、ここにいるんだよ、と知らせたかったのです。

 

エホヤキン王の捕囚を神様はあえてエゼキエルを通してイスラエルの民に思い起こさせましたが、エホヤキン王は実は捕囚後、王が交代したタイミングで恩赦のようなものを受け、誰よりも高い地位を与えられ、生涯、王の前で食事をし、生活費を王に支給されるというあり得ないほどの待遇の中その生涯を全うするのです。この時点ではまだエホヤキンは牢の中にいる、しかし神様がこのエホヤキンを神様の愛の中にもう一度回復させようと、招き入れてくださる、この神様が今、イスラエルの上にある、この神様が今彼らの内に、また私たちの内におられるのです、その御手を伸ばされ、愛を注がれているのです。死にゆくものではなく、生きる者になってほしい、生きよ、生きよ、と。

 

ただ、ゼデキヤ王は一方で神様が生きる道を、救われる道を備えてくださっていたのに、最後まで神様のみことばに信頼せず、最後は凄惨な死を迎えることになってしまうのです。神様はバビロンの困難の中にあって植えられていた、そこにいたイスラエルの民を、↑で語られている通り、そのぶどうの木・彼らにそれでも心を注がれ、豊かに富ませてくださっていたのです。神様などどこにいるんだ、と思うそのただなかにおられたのです。しかし結局この苦難の中に確かにいてくださっていた神様に最後まで信頼せず、ゼデキヤ王は悲しみの最後を迎えることとなったのです。

 

この2人、本当に対照的ですよね。私たちはもう一度この神様の愛を思い出さなければいけません。この世の中いやなことばかり、とか苦難ばかり、と考えるのではなく、私たちは神様が造られたこの世界に今日、神様によって生かされているのです。イスラエルの民のように苦難困難の中にあることもあります。しかしその時私たちは誰を見上げますか?全地の主なる神様に頼らなくて誰に頼れるでしょう。神様がこの地を潤し、またあなたを潤して下さる、神様の栄光輝くあなたに、またその地に変えて下さるのです。

 

この世の支配者に、問題に私たちはひれ伏し屈服するのではない、この全地を治める神様に求めて良いのです。神様は私たちをそのどん底から何とか救い出そうと、エホヤキン王やゼデキヤ王に対して御手を伸ばされていたように、あなたにも働きかけられているはずです。あの捨てられていた赤子を抱きしめ迎え入れた神様はあなたにも生きよ、と今日も働かれているのです。誰も見てくれない、どうせ、と思う中にあって神様はあなたを見捨てておらず、あなたを抱きしめて、癒し、神様の全て、神様の全ての良きもので覆ってくださるのです。ぶどうの木、と↑でイスラエルの民を例えていますが、私たちを農夫である神様は、神様の豊かな恵みの実でいっぱいにしたいのです。その愛をあなたの内に現したいのです。あなたが↑の最後にあるように、枯れていくことがないよう、あなたを神様ご自身の内に、側にいさせてくださり、いのちを注がれている、豊かな実をあなたの内に結ばれるのです。農夫が汗水たらしながら、その愛をぶどうの木に注ぐようにあなたにも。

 

イエス様は、↑で神様がたとえをもって語られているように、よく民にたとえをもって話されました。それは、たとえ話の方がわかりやすいという側面もあるのですが、その理由についてイエス様は「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです」とも仰られました。そう、それでも神様は私たちが神様の恵みが取りあげられ、失っていくものとなることがないよう語られるのです。だから、聞くものとなってほしい、と。あなたに天の御国の奥義、神様のすべてを知ってほしい、と。

 

しかし、いつまでも聞くこともなく悟ることのない私たちが、神様から頂いた命を、恵みを失うことを悲しまれた神様は、取りあげられ、この世のものやサタンに奪い取られ、枯れていく事を悲しまれる神様は、あの赤子を見捨てるのではなく、救うため、私たちの身代わりに御子イエス様のいのちという何にも代え難いものを差し出されたのです。私たちの身代わりにこの重荷も痛みも、何より罪も一切背負わせ、十字架に架け、罰し、死なせたのです。ありえない話。しかしそのありえない愛をもってあなたに永遠のいのちわが愛するこのために実行されたのです。

 

私たちがこのイエス様の十字架の御前にひれ伏し、悔い改め立ち返る時、このイエス様の愛を悟らせていただく時、私たちのうちに復活のイエス様と同じ恵みが与えられる、罪から解放された、豊かな命をここに持たせていただけるのです。溢れさせてくださるのです。世の声を求め、聞いて失うものとなるのではなく、この十字架に愛を示された神様の声を聞き求め、神様にある富が溢れる、命に溢れるものであろう。何もないように見える中で、神様が何も語られていないように感じる中で、神様は確かに語られ、語られるだけではなくイエス様のいのちを身代わりに与えるという愛まで現された。この神様が示された十字架の愛、イエス様から離れず、ただこの方を求め歩もうではありませんか。確かにそこに神様の奥義が、全てが現わされるから。