「ダマスコについて。『ハマテとアルパデは恥を見た。悪い知らせを聞いたからだ。彼らは海のように震えおののいて恐れ、静まることもできない。ダマスコは弱り、恐怖に捕らわれ、身を巡らして逃げた。産婦のような苦しみと苦痛に捕らえられて。いったい、どうして、栄誉の町、わたしの喜びの都は捨てられたのか。それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、断ち滅ぼされる。―万軍の主の御告げ―わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダデの宮殿をなめ尽くす。』バビロンの王ネブカデレザルが打ったケダルとハツォルの王国について。主はこう仰せられる。『さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋もそのすべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって【恐れが回りにある】と叫ぶ。ハツォルの住民よ。逃げよ。遠くへのがれよ。深く潜め。―主の御告げ―バビロンの王ネブカデレザルは、あなたがたに対してはかりごとをめぐらし、あなたがたに対してたくらみを設けているからだ。さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。―主の御告げ―そこにはとびらもなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。彼らのらくだは獲物に、その家畜の群れは分捕り物になる。わたしは、こめかみを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、彼らに災難を各方面から来させる。―主の御告げ―ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなり、そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。』ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった主のことば。万軍の主はこう仰せられる。『見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く。わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに来させ、彼らをこの四方の風で吹き散らし、エラムの散らされた者が入らない国はないようにする。わたしは、エラムを敵の前におののかせ、そのいのちをねらう者たちの前におののかせ、彼らの上にわざわいを下し、わたしの燃える怒りをその上に下す。―主の御告げ―わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす。わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。―主の御告げ―しかし、終わりの日になると、わたしはエラムの繁栄を元どおりにする。―主の御告げ―』」
エレミヤ書49章23-39節
人は誰かと繋がって生きています。人であったり、コミュニティであったり、でもそこには誰頭との関係があるわけです。ただ、もしそこで見捨てられたら、孤立してしまったらこれはなかなか厳しいものがあります。立ち上がらせてくれる人がいなければ。そういう人を見て助ける人もいれば、むしろ突き落とすタイプの人もいます。愛しているからこう言っているんだ、と言いながら実は相手を突き落とす、本当にいるんです。ただ、神様は私たちを引き上げる神様、見捨てるのではなく救わんとその御手を伸ばされる神様なのです。私たちが神様を見ていないだけで神様はあなたを見ている。あなたを救うためなら、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてまであなたを死の底から救い出される方なのです。私たちに神様は声をかけ、その手を伸ばし、愛を今日も注がれている。私たちはこのイエス様につながり続けよう、このイエス様のくださる恵みに今日生かされ歩もうではありませんか。
さて、BC627年、古代イスラエル王国末期・バビロン捕囚前後の期間、神様から離れていく民を見捨てず、さらに捕囚後にエジプトに逃れ住み着いた人たちに向けて40年以上にわたり神様はエレミヤを通して語られ続けました。神様はその愛を注ぐことをやめませんでした。神様から離れていく民、それでも愛するゆえに何とか彼ら、私たちに生きてほしい、立ち返って生きる事を願い、諦めず神様は語り続けるのでした。そして↑でダマスコ、ケダル、ハツォル、エラムへと語られていきます。
まず、ダマスコは今のシリヤ、エラムは今のイランになります。またケダルはイスラエルの兄弟国のイシュマエル一族の中の遊牧民、とハツォルは正確な場所は分からないのですが、アラビア半島のどこか、です。今のイスラエルとの関係を見ると、そんなところにまで神様は語られているの?と思う国々かと思います。ただこうして語られているということは神様は彼らに無関心なのではない、その思いがこの神様のことばに込められています。
まずダマスコ(シリヤ)について、「ハマテとアルパデは恥を見た。悪い知らせを聞いたからだ。彼らは海のように震えおののいて恐れ、静まることもできない。ダマスコは弱り、恐怖に捕らわれ、身を巡らして逃げた。産婦のような苦しみと苦痛に捕らえられて。いったい、どうして、栄誉の町、わたしの喜びの都は捨てられたのか。それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、断ち滅ぼされる。―万軍の主の御告げ―わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダデの宮殿をなめ尽くす」と語られます。
そのハマテとアルパデはダマスコの北にあるシリヤの町ですが、そこにバビロンが襲ってきて恐怖で弱ってしまいます。そもそもダマスコは古代からある都市で、その歴史と強さを誇っていました。↑を見ると神様も彼らを喜んでおられたのでした。そう、彼らの存在を神様は見ていないわけでもない、むしろ「わたしの喜び」と言われるほどに彼らをその思いに留めておられたのです。実際に当時の不治の病と言われていたほどの重い皮膚病であるツァラアトにかかったアラム人ナアマンという人を、神様は一人の少女を通して神様のもとに招き、癒されたことがあったほどです。イスラエルを戦いで破り奪い取った彼らにさえ。本来私たちは神様にとっての喜びの存在、その喜びを現して下さるのです。私たちは神様は自分を見てないと思いますが、神様は見ておられ、その御手を伸ばされている、癒そう、救わんとされているのです。
しかし、彼らは神様に捨てられる。何があったのか。南ユダがアッシリヤと同盟を結んだとき、北イスラエルはとダマスコは反アッシリヤ同盟を組み、これを攻撃しますが、逆に彼らはアッシリヤによって打倒されました。ただ一時的に回復するのですが、再びバビロンによって滅ぼされる、それがここの預言で語られているのです。
彼らは先ほど紹介したツァラアトになって癒されたナアマン将軍を通して神様に立ち返る機会がありました。またその頃、イスラエルに戦いを仕掛けた際、彼らは神様の憐れみによって殺されることなく国に帰ることができた、まさに神様に帰る機会があったのにもかかわらず、彼らは神様を拒否したのです。喜びの存在としてくださった神様、神様の現わされる喜びを拒否してどうなるでしょう。私たちは恥を見させるためではなく、神様の喜びを現そうとその御目、お心を注がれている存在であることを忘れてはいけません。その私たちが、神様から離れてかえって自分の求めた者や、世の勢力によってあなたの大切な命を嘗め尽くされ、奪われてどうしましょう。神様は悪い知らせではなく、あなたにいのちを得てほしい、喜びを得てほしい、と今語られ、その愛を示されているではありませんか。
さらに神様は「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋もそのすべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって『恐れが回りにある』と叫ぶ。ハツォルの住民よ。逃げよ。遠くへのがれよ。深く潜め。―主の御告げ―バビロンの王ネブカデレザルは、あなたがたに対してはかりごとをめぐらし、あなたがたに対してたくらみを設けているからだ。さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。―主の御告げ―そこにはとびらもなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。彼らのらくだは獲物に、その家畜の群れは分捕り物になる。わたしは、こめかみを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、彼らに災難を各方面から来させる。―主の御告げ―ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなり、そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない」と語られます。
このケダルはイシュマエル部族の子孫になります。イシュマエルというのは、アブラハムの息子です。アブラハムは神様から子孫が与えられるという約束を受けながらいつまでも与えられない、と不信仰に陥り、妻のサラの提案により彼女の奴隷と床を共にし、イシュマエルが誕生するのですが、彼はやがて神様の約束の子として与えられたイサクの誕生によって追い出されます。ただ神様はイシュマエルを見捨てていなかったのです。彼らには彼らへの祝福を用意され、また彼を通して民族も豊かに広げられていた。しかし、彼らはイスラエルを恨み続け、↑の前で見たエドムなどと手を組みイスラエルに攻撃を仕掛け、神様に帰らないのです。
しかし神様は次のエラム(イラン)に対して「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムの捕われ人を帰らせる」と仰られているように、彼らの、私たちの帰る場所を用意してくださっているのです。イランの中でも今、夢の中でイエス様に会い悔い改めた人も出て来たりしています。神様はイシュマエルに対して、「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう」と約束していた、神様が、彼らを祝福し、大いなる国民とされる、だから↑の預言で遊牧民となってさ迷うのではなく、神様のもとに帰ってくるよう招かれるのです。自分たちは神などいなくても大丈夫、と変な安心、独自の歩み・孤立に生きるのではなく、神様の、それこそ↑にある喜びに満たされ歩むように。
↑の後半の預言で、エラム(イラン)について、彼らの力の源である弓を砕き、「わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに来させ、彼らをこの四方の風で吹き散らし、エラムの散らされた者が入らない国はないようにする」と仰られていますが、神様はむしろ神様の力で彼らを満たしたい、神様の喜びが彼らのいのちの源となって、また四方から風、聖霊様によって満たされ、本当に生きたものとしてくださる、もう一度彼らを、あなたを罪の底から引き上げる、神様のもとに連れ戻すと約束されているのです。
私たちは今この神様の愛、御思いを受け、どう応答するだろうか。神様はあなたをどうでもいい存在なんて考えない。彼らを見捨てなかった神様は、私たちを見捨てることができず、イエス様を遣わされました。イエス様は神様から離れて罪に陥った私たちをまた恥とも考えず、兄弟と呼び、私たちの御名、救いとなられるため、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架に架けられ、死なれました。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。
私たちはもう、神様から離れた暗闇に留まっていてはいけない。神様はあなたに光を灯し、その息吹を、霊を吹き、あなたを生き返らせる、本当の意味で生きた者へと回復させてくださるから。その時、私たちは光を見る。ダマスコ(シリヤ)に、神様の御前に悔い改め、イエス様を救い主として受け入れた人が多くイエス様の復活後出てきたように、そこにイエス様の驚くべき御業が起こり、神様にある回復が起こるのだから。今日もあなたを生き返らせ、恵みで覆いに満たそうと、あなたを喜ばれる方が、今日あなたに喜びをもたらそうとあなたに変える場所を用意されたイエス様があなたを待っておられるから。
