「イスラエルの神、万軍の主は、わたしの名によってあなたがたに偽りを預言している者であるコラヤの子アハブと、マアセヤの子ゼデキヤについて、こう仰せられる。『見よ。わたしは彼らを、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はあなたがたの目の前で、彼らを打ち殺す。バビロンにいるユダの捕囚の民はみな、のろうときに彼らの名を使い、【主がおまえをバビロンの王が火で焼いたゼデキヤやアハブのようにされるように】と言うようになる。それは、彼らがイスラエルのうちで、恥ずべきことを行ない、隣人の妻たちと姦通し、わたしの命じもしなかった偽りのことばをわたしの名によって語ったからである。わたしはそれを知っており、その証人である。―主の御告げ―』あなたはネヘラム人シェマヤに次のように言わなければならない。『イスラエルの神、万軍の主は、次のように仰せられる。あなたは、あなたの名によって、エルサレムにいるすべての民と、マアセヤの子、祭司ゼパニヤ、および、すべての祭司に次のような手紙を送った。【主は、祭司エホヤダの代わりに、あなたを祭司とされましたが、それは、あなたを主の宮の監督者に任じて、すべて狂って預言をする者に備え、そういう者に足かせや、首かせをはめるためでした。それなのに、なぜ、今あなたは、あなたがたに預言しているアナトテ人エレミヤを責めないのですか。それで、彼はバビロンの私たちのところに使いをよこして、それは長く続く。家を建てて住みつき、畑を作ってその実を食べなさいと、言わせたのです。】』―祭司ゼパニヤがこの手紙を預言者エレミヤに読んで聞かせたとき、エレミヤに次のような主のことばがあった。―『すべての捕囚の民に言い送れ。主はネヘラム人シェマヤにこう仰せられる。わたしはシェマヤを遣わさなかったのに、シェマヤがあなたがたに預言し、あなたがたを偽りに拠り頼ませた。それゆえ、主はこう仰せられる。【見よ。わたしはネヘラム人シェマヤと、その子孫とを罰する。彼に属する者で、だれもこの民の中に住んで、わたしがわたしの民に行なおうとしている良いことを見る者はいない。―主の御告げ―彼が主に対する反逆をそそのかしたからである。】』」
エレミヤ書29章21-32節
人は何かにすがっていたいものです。それは弱いから、ではなく、人は一人では生きていけない。少し思い返してみますと、私たちは、一人で今まで生きてきたわけではないですよね。赤ちゃんしかり、誰かが私たちにかかわり、助けられながら生きてきた、そして今日私たちがここにあるんだと思います。あなたにこれまでどんな人がかかわってくれましたか?どんなことをしてくれましたか?まあ苦い思い出ももしかしたらあるかもしれませんが、人間は完璧ではないのです。しかし完璧な神様がおられる、いや神様はただおひとりなのですが。自分を中心の視点で見ると、色々あったかもしれない、自分にあれをしてくれなかった、と。でも神様の視点で見るなら、神様がその中で働かれてきたことを知り、今の自分がある事を知る。私たちは完璧、唯一真なる神様に信頼しよう。この神様が導かれる希望を待ち望もう。この神様が御子イエス様のいのちにあってあなたに現される御心を。
さて、↑はおおよそBC586年頃、イスラエル・南ユダの民が完全にバビロンに捕囚された後、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、長老たちで生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、およびすべての民に、預言者エレミヤは、エルサレムから手紙を送ります。神様は彼らに、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語られ、本物の神様を求め続けよう、神様は彼らの、あなたの声を聞き、神様の恵みを見出させて下さる事を語られていました。
さらに神様はここで問題とされていた偽預言者について言及します。↑の前の箇所で、「主は私たちのために、バビロンでも預言者を起こされた」と、バビロンの捕囚地にいる民に言わせた、偽預言者の名前は、「コラヤの子アハブと、マアセヤの子ゼデキヤ」である、と。そもそも、イスラエルの民は「私たちのために」なる預言をするものと、彼らを見ていた、それ自体にも問題はあるのですが、神様は気を付けるべきものに対してはっきりと語られる。それはもちろんその偽預言者たちへの悔い改めてほしいという思いもあるでしょうが、私たちが気を付けなければいけないことを神様ははっきりと語られる。私たちに曖昧な態度でいるのではなく、それはあなたのためにならない、というところから離れ、本物の神様に聴くように訴えているわけです。
神様は私たちに本当の希望、神様のくださる恵みに生きてほしいと招かれているのです。だからこそ、そのようなあなたのために、自分自身の損得のためになるかならないか、で聞く、自分にとって利益となりそうなことを受け入れるのではなく、神様に聴きなさい、と彼らの、私たちの心を神様に向けるように今訴えるわけです。私たちが考える損得ではない、神様の最善へ導くために。
神様は今「見よ。わたしは彼らを、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はあなたがたの目の前で、彼らを打ち殺す。バビロンにいるユダの捕囚の民はみな、のろうときに彼らの名を使い、『主がおまえをバビロンの王が火で焼いたゼデキヤやアハブのようにされるように』と言うようになる…」と手紙をもって、バビロンにいる人たちに語られます。
これはどういうことなのか、偽預言者たちはエレミヤが「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」と、ここに住み着いて、この地で仕え生きる事、その中で神様の繁栄がこの地にもなされることを祈るように語っていた、それによってこの国が神様によって変えられていく事を語っていたことを考えますと、その逆、ネブカデネザルに逆らう事、そしてすぐに解放されることを語っていたことが考えられます。たぶんそれがネブカデネザルの逆鱗に触れたのか、彼の手によって彼らは打ち殺される、火で焼かれて死ぬ、という事になったのでしょう。
でもそれは仕方がないじゃないか、と思う人もいるかもしれません。世の中しょせんそんなものなんだ、と。しかしそうではないのです。もちろん世の中に迎合して生きるように神様が仰っているのではない、むしろ先ほどのことばにあるように、この地の繁栄、神様の栄光が現わされることを祈る、そのことを神様は求めているのです。その中で古いものが焼き尽くされて新しくされる、火で精錬され、驚くべき姿に変えられるのです。ただ焼き尽くされるか、それとも神様の火がすべてを変えるか。
実は、以前ダニエル書の分かち合いの中でも触れましたが、この「火で焼かれて死ぬ」ということばがまさに実現しようとしていたことがありました。ある時、ネブカデネザル王が、自分の作った像の前にひれ伏し祈らなければ、近づいただけで焼け死ぬような燃える火の炉に投げ込む、ということを言ったことがあったのですが、バビロンの宦官として神様にたてられていたダニエル、そしてその友人たちは苦境に立たされたことがありました。そして彼らはそれでもネブカデネザルの造った像の前にひれ伏し拝むことをせず、その燃える炉に投げ込まれます。彼らを炉の中に投げこもうと近づいた人はそれだけで焼け死んだほどの炉に。
しかし投げ込まれた人たち(ダニエルの友人3人)は、その来ていた衣服さえ燃え尽きることなく、火傷をすることさえありませんでした。何があったのか、ネブカデネザルはこの時、4人目の姿を見たのです。3人の友人ダニエル?いえ、違う、なんと人となって生まれてくる前のイエス様がそこにおられ、彼らを守られていた、そして救い出されたのです。
その時、あの悪王ネブカデネザルは「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ(今触れた3人の名前)の神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ」と、この神様こそ真の神様なのだ、と異教の神々に仕え、さらには自らをも神としていた彼はこの神様の御前にひれ伏し、この神様意外に神はいない、と民たちの前で告白するほどの変化を遂げたのです。まあ、このあとまた問題を起こすと言えば起こすのですが。神様の聖めの炎は古いものを焼いて新しいおどろくべき神様の御業がそこに現されるのです。
このままいけばイスラエルの民は民族消滅間違いない状況でした。しかしダニエルを含むこの3人は宦官としてネブカデネザルに仕え、その信頼を勝ち取るほどに仕え、その中で神様の栄光を、御心を待ち望んでいた、祈っていた、その中で神様は驚くべき御業を成し遂げたのです。まさかのネブカデネザル王の改心。この神以外を拝んではいけない、と言い放つほどに。
最初の偽預言者たちに話を戻しますが、彼らは神様を待ち望んでいなかった。彼らは神様が導こうとしている命の道ではなく、自分の道を邁進していた。その結果、彼らは神様にある勝利を見ることがなかったのです。ついにはネブカデネザルによって結局彼らは焼き殺されることとなったのです。↑で出てくるもう一人の偽預言者シェマヤはエレミヤを迫害しますが、結局神様の御心を願わず、それを焼き払ったところで何になるでしょう。シェマヤはやがて来る勝利の日、バビロン捕囚からの解放の日を見ないと言われていますが、私たちは何を今日求めていますか?
本来私たちは逸れこそ燃える火の炉の中に投げ込まれるはずのものでした。神様を離れ、好き勝手に生き、自分たちの思うことがすべて、と思って歩み進み、もう神様から永遠に突き放され捨てられてもおかしくなかった、それなのに神様はそれでも私たちを憐れまれ、神の御子イエス様を私たちに与えてくださった、私たちの間に愛を現し、ついにはその燃える火の炉から、罪の呪いが燃え盛る炉、そして永遠の裁きの炉から救い出すために、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架に架けられ死なれたのです。身代わりにその神様の怒り、裁きの炎を受けられたのです。そして死なれました。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る時、私たちはこの燃える炉から引き上げられ、神様の子とされる、神様の御もとに引き上げられ、もはや世の火は私たちを燃やすことはできない。
私たちはイエス様のいのちにあって今解放されている。その今私たちは何を恐れるでしょう。もう偽物の希望にすがってはいけない。確かに今も様々な問題があなたの前に立ちはだかるかもしれません。しかしその中で諦めるのではなく、この神様の繁栄が、栄光がこの地に現されることを祈ろうではありませんか。神様の十字架の炎がすべてを聖め、新しくされる、その神様の勝利を待ち望もうではありませんか。世の勢力は神様の炎によってすべて打ち砕かれ、変えられる。神様は御子イエス様のいのちをもって私たちにこの勝利の日に招かれた、導かれる神様に最後まで信頼し歩もう。
