「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。」
イザヤ書26章1-11節
世の中様々な優れた人、事業などがありますが、中身が肝心と言いますか、柱となる何かが不安定ですと、一方で、この人がいると何か安心する、大丈夫、という安心感を持てる人がいると、それだけで変わってきますよね。私も以前職場で、何人かそういう人と出会いました。この人がいるなら今日は大丈夫そう、という逆もありますが。あなたの人生には誰がいますか?色んな人と私たちは出会い、また支えられ、励まし合い歩みますが、あなたのすべてを救い出すために御子イエス様は惜しまずいのちを差し出してくださりました。あなたが命を得るためなら、と。あなたのために命さえかけるほどに愛されるイエス様に私たちはどれだけ信頼し歩むでしょうか。
さて、↑は古代イスラエル王国分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ、南ユダはアハズ王が死んで後、ヒゼキヤ王の治世に入る、そのころに預言者イザヤを通して語られたことになります。24章からは世の終わりについての預言、イザヤの黙示録と呼ばれる箇所、ここまでは世の終わりと、そこに残された希望、再臨のイエス様が来られる、永遠へと導こうとされているイエス様が再び来られること、また、地上がどんなに高慢な者、騒がしい者、横暴な者が支配するようになろうとも、終わりの時には主が意図されたとおり、地を回復され、騒ぎや横暴な者たちは完全に静められること、驚くべき花嫁の晩餐をイエス様が私たちを迎える時のため、用意されていること、それに向けて今も私たちを道いてくださっている事をここまでみました。今回はこのイエス様を受け入れて何があるのか、もう少し具体的に語られていきます。
終わりの時を啓示されたイザヤはなお「その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる」と歌います。その日、これは第一義的にはこれまで神様がイザヤに啓示した終わりの時、大患難時代の時を指すわけですが、その時になると、今もそのような傾向が中東に見えますが、偽キリストといいますか、サタンが内住してイスラエルを苦しめてくる、いやイスラエルだけではない、もし艱難後軽挙(24-25章でもふれました、大患難時代の後に、イエス様がもう一度来られるという説)の場合ですと、クリスチャンはもとより、多くの艱難、迫害によって、いのちを奪われる、昔の日本でいうところの踏み絵どころのレベルではない問題が起こる、そのなかで、神様はそれでもユダを城壁と塁を守られる、と約束されています。
ちなみに、艱難前軽挙(艱難時代の前にイエス様が再臨されるという説)の場合、クリスチャンは軽挙されます(わかりやすく言いますと、すでに死んでいる人は引き上げられ、生きている人はイエス様を救い主として受け入れたかどうかで死なずに天に引き上げられます)が、信仰を持たなかった人などは残されてしまう、それでも神様は彼らを何とか救おうと御手を伸ばされ、救われる人たちが起こされます、が、結局その残された人たちは偽キリストに従わなければ命を奪われかねない、やはり踏み絵のような問題が確実にある。
その中で、神様はいずれにしても、「神様という」城壁と塁をもって守ってくださるのです。物理的な城壁でしたら、今の時代では空爆でもあれば一発で終わりますから、単純に城壁の一言ではないことが言えます。もっと言いますと、バビロン捕囚後の預言者ゼカリヤを通して神様は「エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。―主の御告げ―わたしがその中の栄光となる」と語られている通り、やはり神様も、ご自身の宣言のもと、城壁となり、囲いとなり、私たちをかくまい守られることを約束されています。
だからこそ、ゼカリヤを通して神様は「さあ、さあ。北の国から逃げよ。…さあ、シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ。主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる』と。このとき、あなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知ろう。シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。…」と語られます。
逃げ込んでいいんだ、と。その城壁はあなたに向けて開かれているから、と。神様ご自身が城壁となる、だから私たちはどこにいようとも神様を求めて良いんです。イエス様も、昨日も引用させていただきましたが、終わりの時について語られている中で一言、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、…ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」と語られています。
イエス様、一部の人しか興味ない?救わないの?と思われるかもしれませんが、しかしイエス様は終わりの時は、全世界に福音が宣べ伝えられ、すべての国民に証されるまでは来ないと仰られました。ということはイエス様の福音、救いは、十字架によってすべての人に開かれたのです。復活されたイエス様も、全世界に出ていき福音を宣べ伝えなさいと仰られましたし。天と地が結ばれた十字架は、神様の愛は、こんな暗闇の中に閉じ込められている自分には関係ない話だ、ということはないのです。むしろイエス様は、御子でありながら、罪人である私たちと関係あるものとして回復させてくださった、だからこそ、今あなたに向け城壁は、その城門は開かれている、神様の家族としての恵みはもう始まっているのです。
↑の歌は自分には関係ない、ということではありません。そもそもイザヤも、まだイエス様が人となってお生まれになる700年近く前にこの預言に触れています。ある意味イザヤよ、あなたは気を付けて他の人のようにはならないでね、と神様が仰るのではなく、ユダヤの城壁、城門は開かれているというのです。その城壁・城門はあなたにも開かれている。そうでしょう?イザヤからしたら先の時代より今目の前の問題を、と思う中にあって、その城壁を開かれている神様が今、語られている、今もその大いなる愛、約束がある終わりの時だけの話ではない、その神様の愛は今彼に、あなたに向けられているのです。
「私たちが」城壁を建てたら守られるのではない、神様が私たちの城壁となってくださる、何という幸いでしょう。閉じ込めるためではない、神様ご自身があなたを家族として、迎え入れ、その中であなたを守り導き養ってくださるのです。
神様から啓示を受けたイザヤはなお続けて、「城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける」と歌います。
城門を開けて正しい民を入らせるのは神様です。だってそうでしょう?先ほども申し上げました通り、この城壁となり、招いてくださっているのは神様なのですから。全き平安の内に、終わりの時でも、また今も、神様は私たちを招いてくださっているのです。それこそ、昨日分かち合わせていただいたような宴会、完全な養いの内にあなたを守ろうと。御子イエス様の命を持ってまで招かれたのですから、これ以上感謝な事はありません。
イエス様の12弟子のひとりであったヨハネはイエス様の啓示を老年になって受け、残した黙示録の中に「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。【わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。】…』」と書き残します。その城壁の鍵をある意味で神様は閉めることはできるのです。もうたくさんだ、これだけ好き勝手に生きて何をいまさら、というのではなく、閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた、というのです。イエス様の御名によって、あの十字架に示された愛ゆえにその門をまだあなたに向けて開かれている、後は私たちがそのイエス様なんて興味ないとか、拒否するのではなく、受け入れる時私たちはこの全き平安を受けることとなるのです。
イエス様を信じて何になるのか、と世の人たちはあなたをさげすむかもしれない、そのような時も来る、それでも、私たちが忘れてはいけないのは、私たちが強いのではない、このイエス様の前に遜り、また委ねる時、私たちの弱さの内に神様は完全に働かれるのです。そして小さな力が私たちにある以上に、神様の偉大なご計画が、御力が、あなたを覆い、守られるのです。神様がいるからこそ、私たちは平安でいられる。本当の平安はまさに神様が与えてくださるものなのです。御子イエス様の命を惜しまないほどの愛をもって。
確かに↑の中盤以降に歌われているように、夜のようなつらい日々を送る日はあるかもしれません。しかし、そのようなあなたの道筋をならして平らにしてくださる、義の神様が今日、あなたをこのイエス様の城壁、囲いへと、導いてくださるのです。イエス様の示された道が私たちの目には平たんに見えなくとも、イエス様が一緒にあなたと進み、とこしえの義の道に導かれるから、私たちは主の前に遜り、このイエス様にゆだね、従い、イエス様の栄光を仰ぎ見させていただこうではありませんか。この義の内に、この道は確かにあなたのために命をかけられたイエス様が共に進まれ導かれるのだから。
