―人生一度きり、与えられた命をどう生きよう― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。『主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。』ヨシュアは彼らに言った。『もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。』ヨセフ族は答えた。『山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。』するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。『あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。』」

ヨシュア記17章14-18節

 

人生一度っきり、それならどう生きようが自由でしょ、という人もいますが、その使い方が変な方向に向かわなければいいのですが。私たちの命は自分で得たものではない、神様が与えてくださったものです。あなたという人は神様が保証してくださっているということを覚えよう。神様はあなたを必要十分に日々養われることを忘れないで、この方についていき歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、ヨシュアたちイスラエルの民が約束の地に入り、おおよその戦いを終えた後、いよいよ相続地の分配が始まります。ここまでヨルダン川東岸のルベン・ガド・マナセ半部族と、ユダ族、ヨセフ族の相続が終わりました。ところが↑、ヨセフ族、つまりエフライム族とマナセ族は、自分たちの人数が多く、与えられた土地では狭い、何とかしてほしい、ともっと土地を要求するわけです。↑はそこから始まります。

 

彼らヨセフ族はヨシュアに告げて「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか」と訴えます。彼らは祝福されていることはどうやら認識しているようなのですが、人数が増えているから祝福されている、と。そういうことではなく、もし祝福されていると理解しているなら、どうしてこの与えられている土地、神様がそこを広げてくださらないことに信頼しないのでしょう。神様の方法で与えられた相続地、それなのに神様に信頼しないというのはいかがなものでしょう。神様から与えられた命を神様に信頼しないのはいかがなものでしょう。

 

彼らの相続地は狭いのか、と言われたら、地図を画像に残しておきますが、

 

 

そんなことは決してありません。他部族と比べても、ユダ族はともかくとして相当の広さを持っています。それにユダ族は荒野なども含んでいますが、これまでエフライム族やマナセ族の相続地の中身で分かち合ってきたように、地理的にも肥沃な大地であり、1日1570万ℓ もの水が溢れ出るところだってあります、ヨルダン川だってマナセ族は東西に渡って挟み、その相続地に見ているのです。そう、神様のあの奇跡の渡河を思い出させてくださる。

 

本当に祝福されている、と思うなら、その神様が自分たちと共におられるという喜びにあふれるところでしょう。ものたりない、これじゃあたりないからもっとほかの相続地をくれ、というのはおかしな話です。むしろまだ相続していないほかの部族だってあるわけですからどうして彼らにその喜びを分かち合おうとしないのでしょう。

 

確かに、エフライム族側の山地以外の森があり、それを切り開くことが億劫になっていた、という問題ももしかしたらあったのかもしれません。それと同時に、「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています」と彼らが言っているように、まだ切り開くべき土地が残っているじゃないか、というその土地には鉄の戦車をもつ者たちがいたのです。それは確かに厄介な話ですよね。なぜなら、彼らはそんなものなどまだ持っていませんでしたから。

 

しかし、じゃあしかたないよね、という話ではないのです。精神論で気合を入れて勝ち取れ、というわけでもありません。11章で実はこの戦い方を神様から示されていた、学んでいたはずなのです。相続に入る前の戦いで、イスラエルはやはり鉄の戦車に対抗しうる武器など持ち合わせていない、しかし北の連合軍、ハツォルの王の率いる北方の軍隊に対して、神様がイスラエルに対して、「あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない」と言われ、その通りにしたら、完全勝利を治めたではありませんか。

 

もちろんいつも同じ方法でうまくいくとは限らないかもしれません。しかし、神様はこれらを自分たちのものにしないように、それがなくても神様がいるんだよ、ということをこの時導かれたように、示されたように、たとえいつも同じふうにいかないにしても、この「神様」がおられるのです。祝福は、金持ちだの貧しいだの、地位があるだのないだの、相続地の広さなどの問題ではないのです。神様が共におられること以上の祝福はありません。神様があなたを守られるのですからこれ以上の安心はどこにあるでしょう。あなたの命を与えてくださった神様がおられる以上に。

 

私たちは祝福されているのに、その祝福に対して応答しないことがしばしばあります。私たちはそう、しばしば、「積読」をしてしまうのです。自分の関心のあることのために知識を得たいと思って、たくさんの本を借りたり、購入したりするのに、肝心の知らなければいけない中身に入る前に本を閉じてしまいます。しばらくして、再びその関心がよみがえり、既に買った本を読めばよいのに、他の資料から得ようとしてインターネットで捜したり、さらに本を購入してしまうのです。これは私も何気なくある話なのですが。

 

勝利の方法は確かに以前体験していますが、その奥深く、それを示され、勝利に導かれた「神様」がいるということを、守られた「神様」がいるということを忘れ、今回は何に頼るべきか、とさ迷ってしまうわけです。この神様がいらっしゃるからこそ、十分に自分の敵、心の中にある敵、生活の中にある敵に戦うことができるはずなのに、肝心な部分にまで到達する前に、あきらめてしまうわけです。一番忘れてはいけない、神様があなたと共におられ、これまで道を切り開いてきてくださったことを忘れ。出エジプトからみれば40年以上神様は彼らをありとあらゆる問題から守り導き養い、祝福してきてくださったはずなのに。

 

それがあるところで突然プチンと途切れることはない、神様は彼らを、あなたを導かれているのです。それは人生山あり谷あり、ではありますが、今日まであなたを導いてきてくださった神様はあなたをこれからも導かれるのです。あなたはこの確信を持っているでしょうか。私たちはしっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらせていただこうではありませんか。

 

何より、私たちの命は御子イエス様にあって贖われたものです。私たちが本来神様から離れ、好き勝手に歩み、もうこれだけ勝ち取った、うまくいったからもう神様はいいや、と離れていった私たちを暗闇の中、何よりサタンの手から取り戻すべく、私たちのこの罪の身代わりに御子イエス様を十字架にかけ死なせた、それと同時に3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としていただける、新しい命が与えられる、このイエス様の命にあって切り開かれたのです。その新しい命に何の不安がありましょう。

 

もちろん、鉄の戦車ではなくとも、私たちの周りには様々な問題が囲います。しかし、これらに勝利させてくださるのは、あなたのために御子イエス様の命を惜しまなかった神様です。この試練を脱出へと共に導いてくださるのも神様です。神様の全き愛が私たちの恐れを締め出し導いてくださります。私たちはこれはしょうがないよね、とあきらめるのではなく、むしろ神様から与えられたこのいのち、神様の御心によって地境を広げてください、と祈り求めようではありませんか。そこに神様の栄光が現わされるとき、神様は私たちに自分たちが思う以上の神様の栄光を仰ぎ見させてくださるから。