ーコミットメント2:やり直しの機会ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…彼は、ナジル人としての聖別の期間は、主に聖なるものである。もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合、彼は、その身をきよめる日に頭をそる。すなわち七日目にそらなければならない。そして八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来なければならない。祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをし、彼はその日にその頭を聖なるものとし、ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別する。そして一歳の雄の子羊を携えて来て、罪過のためのいけにえとする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。…』」

民数記6章8−12節

 

やり直しの機会、これは本当に必要だと思います。失敗を通して、方向転換して人は少しずつ成長していくのですから。え?神様は?神様も、悔い改めの機会をこの民数記に至るどころか、まだ待っていますよ?終わりの時まで。ノアの時代は100年近く待っておられましたからね、洪水まで。ソドムとゴモラは?直接その目で確かめに行き、最後の最後まで悔い改める人を待っていました。裏切りの代名詞のもう一人、ペテロもイエス様を呪って否定したのに、復活のイエス様は彼を悔い改めに導かれた。裁くのではなく赦された。聖書には神様のそのような愛が山ほど詰まっている、この神様が与えてくださっている大いなる恵みに、私たちは立ち返ろうではありませんか。神様、信じるよ、で終わるのではなく、その先に待っている恵みへ。

 

さて、↑は「ナジル人」に関わる教えのつづきになります。そもそもナジル人ってなんだ、と思われる方もいるかも知れませんし、自分はナジル人ではないから関係ない、と思ったら実は、本質的には5章で見た夫婦や人間関係の話、そのためにも大事な話がこのナジル人に関わる神様の教えを語られるのです。

 

まず、「ナジル人」とはなんだ?ということですが、昨日も分かち合いましたがもう一度何なのか、確認をしようかと思います。このナジル人というのは、どこかの国の国民を表す言葉ではありません。「ナジル」というのはそのまま「聖め別たれる」という意味をもっています。5章に出てきたイスラエルの宿営の中から汚れやねたみをなくすというのが、マイナス面の聖別であるとしたら、ナジル人はプラス面の聖別、積極的な聖別と言ったら良いのかもしれません。

 

もっと積極的に、神様に喜ばれるものへとなっていく、繋がっていく。汚れた、しょうがないよね、罪人だもん、じゃなくて、神様につながり、神様に助けていただく、なにかが起こったら仕方ないよね、神様助けてください、ではなく、弱い自分を知っているからこそ、神様に繋がって、ひたむきに神様から心を離さない。どんな試練、問題が起きようともまず神様に帰る、ここがポイントになります。

 

話は↑に戻して、ナジル人について、まず神様は「男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであって、頭の髪の毛をのばしておかなければならない。主のものとして身を聖別している間は、死体に近づいてはならない。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らのため身を汚してはならない。その頭には神の聖別があるからである」と、モーセを通して告げられました。

 

昨日はあまり細かく見れませんでしたが、聖書は厳密には飲酒を否定はしていません。イエス様も結婚式場でワインが切れたことを知ったマリアがイエス様に頼むと、瓶に入った水をぶどう酒に変え、提供させたこともありますし、健康のためにほどよいアルコールをとることは否定はされていません。イエス様の例え話でも、ぶどう酒の話、ぶどう畑の話も登場するくらいですから(イスラエルにおける)、さほど問題はありませんが、ではなぜナジル人はダメなのか?

 

これは私たちにも関係するのですが、パウロは「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」と、手紙に書き残しています。

 

酒に酔いつぶれるほど飲んで自身をコントロールできない状態になるのではなく、御霊様に満たされ、導かれる、酔わせていただく、御霊様が導かれる神様の栄光、心からうたい、賛美したくなるほど、感謝したくなるほどの状況に導いてくださるからです。そういう意味で酒を避ける理由があったのかもしれません。頭髪については、人目でナジル人だとわかるようにしているか、彼を通して神様の恵みが断ち切られることがないように、という側面もあるかもしれません。

 

ただ問題は、↑の今日の箇所とも繋がってくるのですが、死体に触れないこと。それがたとえ家族であろうと。これは非常に厳しいです。人の死に関わる時は、これ、日本と違い、中東では葬儀に1ヶ月近く要する事があるそうです。そうすると、祭司として役割が止まってしまう、ということもあるのかもしれません。

 

ただ、偶然↑の「もしだれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合」というのは不可抗力、どうにもなりません。その時は、やり直しになります。死体に触れた日から数えて7日目に、頭(髪)をそり、八日目に山鳩二羽か家鳩のひな二羽を会見の天幕の入口の祭司のところに持って来て、祭司はその一羽を罪のためのいけにえとし、他の一羽を全焼のいけにえとしてささげ、死体によって招いた罪について彼のために贖いをして、彼はその日にその頭を聖なるものとし、ナジル人としての聖別の期間をあらためて主のものとして聖別する。

 

覚えているでしょうか?レビ記の最初の方で見ましたが、罪のいけにえは、罪を犯したときに、罪の赦しのための犠牲の供え物です。そして全焼のいけにえは、神に自分自身をささげるためのいけにえです。私たちが罪を犯したときは、この二つのいけにえが必要です。罪を言い表して、主から赦しときよめをいただくことと、罪を捨てて、主に再度自分自身を捧げる、この2つがセットになって、初めてやり直しがきくのです。イエス様も、悔い改めるなら何度でも赦しなさい、と教えたように。もう一度神様のものとされるのです、子とされるのです。その特権に与らせていただけるのです。

 

ただ、それでも何で他人のために?と思うでしょう。私も思いました。でも祭司といえど、彼らだけが特別なのではありませんし、なにより同じ共同体の一員です。誰かの問題を、それはその人の問題だから、と放置していいわけではありませんし、何より大切なことを私たちは忘れてはいけません。そのなんで他人、罪人のために生贄とならなければならなかったのか?という存在を忘れていませんか?イエス様はなんの罪もない、神の御子であられるにも関わらず、私たちをもう一度神様の恵みに立ち返ることができるように、私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。

 

しかし、そこでは終わらなかった。そこで終わったら死は死で終わり。3日目によみがえられ、このイエス様の十字架と復活による救いを受け入れる全ての人の罪を赦される、もう一度立ち返る機会を頂いたのです。序論で書いた人たち然り、イエス様を迫害していたパウロさえ悔い改めに導かれた。そして神様の家族、子としての大いなる恵みに与らせていたのです。

 

私たちはこれだけの愛を受けたのだから、積極的な聖別、救われたからもう良い、ではなく神様の御心が現される事を切に願い、また、パウロが「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」と言っているように、私たちは自分だけではなく、隣人を愛し、その中にさらに神様のみ恵みが溢れ流れていくことを切に祈り、また仕えるものでありたいものです。