「しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。主はモーセに告げて仰せられた。『レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。』イスラエルの人々は、このようにし、すべて主がモーセに命じられたとおりに行なった。」
民数記1章47−54節
自分が思っている役割とは違う役割が与えられると、残念に感じることがありますね。しかし、それでも与えられた任務は何とかこなしていってもどこかで心にほころびができてしまいます。しかし、私は私、あなたはあなた、人それぞれ能力も違えば与えられる役割も違う、それでも自分でなんとか乗り越えよう、これを我慢すればきっといつか報われる、と考えたくなります。しかし忘れてはいけないのは、神様はあなたに与えられている役割の内に御力を豊かに現してくださる。乗り越えて次のステップに、というよりも、神様がそこに遣わされたのなら、神様に信頼しよう。その役割を与えられたなら、神様に信頼しよう。あなたにはあなたへの神様の豊かな、最高の計画を用意されているから。
さて、↑はイスラエルの民がモーセを通して神様がエジプトの奴隷状態から救い出してくださり、2年目の第2の月の1日に神様はモーセを通してイスラエルの民、12部族の人口調査を命じます。20才以上の軍務につける男性を。もちろん、女性を差別しているわけではなく、それぞれに役割があった。軍務につけない人にも、老人にも、20才以下の人であっても。また部族の大きさは人数に比例することなく、それぞれがそうして互いに支え合う、その中に神様が働かれることを見てきました。
しかし、実は↑にある通り、レビ族は軍務につくこともなければ、人口調査の対象にも入りません。3章に入ると、また父祖の家ごと、氏族ごとに登録するのですが、それは軍務のためではなく、↑にもある幕屋での奉仕、神様と民をつなぐ役割を持つ祭司としての働き、それにあてられることになります。神様は彼らに、「あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない」と仰られ、役割を与えるのでした。
戦う人がいるのにずるい?出エジプト記を思い出していただくと、実はレビ族出身のモーセが戦場に出て、手を上げて神様に委ねている時、戦いが優勢になり、手をおろしている時は劣勢になった、ということがあったのを覚えているでしょうか?またこの約束の地についてからも、実は祭司が契約の箱を先頭に立って担いで進む、ということもあります。けっして他の12部族(ルベン、シメオン、ユダ、ヨセフ《マナセとエフライムの部族にわかれている》、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ベニヤミン族)がずるい、と思う必要はない、むしろ彼らには彼らの役割は与えられるし、そこから王が出たり、士師と呼ばれる民をまとめる役割をする人も出てきます。
ちなみに、レビ族では3章に入ったら改めて見ますが、だからといってレビ族が楽なのかと言ったらそうではありません。先程の戦いの件もそうですが、1ヶ月以上の男の子も人数に数えられます。赤ちゃんですよ?びっくりですよね。神様のみそばで仕え、その恵みの中で神様に仕える喜びを知るのと同時に、民のために祈り、とりなす、大きな役割があるのです。またレビ族の中で氏族ごとに役割が分かれ、差別されているのか?と思いたくなる場面が出てきますが、それはまた3章で。
1ヶ月以上、という話ですが、後の時代、王国建国前の時代、ある女性がどうしても子どもが与えられず、もし与えられたら神様に捧げます、と祈り、サムエルという子が与えられました。サムエルは主の宮で小さな頃から仕えます。そして、祭司から色々学び、ついには神様に声をかけられ、用いられるようになります。そして神様に祈り、とりなし、民を支えていくのです。それぞれに役割を神様が与えられている。それに満足せず、離れていったのが、アダムとエヴァだったり、ダムとエヴァの子で、嫉妬から弟アベルを殺したカインの子孫だったり。後の王国時代に入り、王国が分裂した後の北イスラエル王国だったり。
神様はそれぞれ、私を、あなたを支えてくださっているんですよ?それでも神様は北イスラエルに預言者を遣わして、彼らがかみさまの恵みに立ち返ることを願ったり、大切な預言者を極悪非道と当時言われていたアッシリヤの首都ニネベに遣わしたり。それほどまでに神様は私達の、今も気にかけておられるのです。過去失敗したからだめだ、ではないのです。またカインに対しても、彼がアベルを殺さないよう説得にいき、何が問題だったのかを話なだめたり、殺した後でさえ、復讐を恐れるカインを助けようとしたり。結果、彼は言われてもいないのにアダムたちから離れるのですが。しかしそれでも神様は妻となる女性を与え、一人となることがないよう助けてくださった。まあそれでも子孫たちは離れていくのですが。
聖書の中には他にもそんなケースが山程あります。挙げたらきりがないほどに。ただ、↑でまずレビ族の立ち位置について神様が「イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない」と仰られたように、神様と民の間に立つ役割の祭司が中心にあり、そこを中心に神様の恵みが溢れ流れていくよう、奉仕の役割が与えられていたのでした。いえ、幕屋に住まわれ共に民と進まれる神様が中心におられ、民を養われたのです。
今年、出エジプト記〜レビ記〜民数記と連続してみてきたのは、実はこの辺の流れが抜けないようにしているんですよね。覚えていますか、出エジプト記で、幕屋建設の際に神様が「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と仰られていたのを覚えているでしょうか。↑や昨日の12部族の人口調査を見ると、どの部族が特別、なのではなく、大事なのは神様を私達の生活の中心に置くこと、どこに言っても移動しても、神様との関係を、↑のレビ族が幕屋の移動、組み立て等の役割が与えられている通り、どこにいても、どんな場面であっても、どんな時であっても、神様を求める、その中で神様は祝福を、命を、恵みを、溢れ流れさせてくださるのです。それは決して渇くことのない、あなたを満たし、あなたの周りへと更に広がり、神様の栄光が、御心が表され、御国・神様のご統治・愛、命あふれる場所へと変えられていくのです。
神様は怒りではなく命を広げたい。そのため、私たちの汚れ、罪を取り除き、本来あるべき関係・神様の可族・娘へと回復させるため、御子イエス様を身代りに十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくだ去ったことによって、断絶されていた神様との関係、墓の扉は開かれたのです。イエス様の十字架と復活による罪の赦しを受け入れる、悔い改め立ち返るなら、あなたはもう神様の家族、神様が中心とした、神様の恵み溢れる家族へと招かれるのです。
この幕屋を中心とした、神様を中心とした状態こそ、まさに神様の家族の形態となっています。あなたはあなた。しかし、神様を中心としてお迎えするか、自分は自分だからと排除し、外に追いやるか。あなたはどちらだろうか。御子イエス様の命をかけてまであなたを愛された、そこまでして家族として迎え入れられた、この神様があなたのうちになされることは如何程ばかりか。私たちはこの神様の愛に生かされ、喜びに、命に満たされ、いつも神様を中心に、すべ委ね、歩もうではありませんか。
