「イエスはまた一つのたとえを話された。『いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、【兄弟。あなたの目のちりを取らせてください】と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。なぜ、わたしを【主よ、主よ】と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。』」
ルカによる福音書6章39-49節
子どもの好きなアニメで宝探しの回をこの話を見て思い出したのですが、悪さばかりする人が宝探しの邪魔をして、最後に見つけた宝物を横取りします。一方で主人公たちは1つ見つけた宝箱の下にもう一つあることに気づいてそれをほっている間に取られたのですが、1つ目には盗賊が着ていたパジャマ、こんなものはいらん、と諦め去った後にもう一つの宝物を掘り出すと、そこには金塊が埋まっていたんです。私たちは神様の内にどれだけ素晴らしい愛が、恵みがあるか、現状を見つめて忘れていませんか?あなたのために御子イエス様の命さえ惜しまないほどに愛されたんです。私たちは神様に求めよう、神様がベストを与えてくださるから。
さて、↑は平地の説教の最後に話されたイエス様の例え話です。たくさん例えがあるように見えますが本質は一つです。まず、イエス様は盲人同士のこと、弟子と師の関係、互いに問題があるのに責め合ったり、取り除いてあげようとする例を挙げますね。しかし、本質は、自分たちが道を見失い、見えなくなった時、誰に頼るか、です。目が見えない人同士でも助け合うことはできないこともありません。目ではありませんが、耳の不自由な両親のもとで育った先輩牧師2人(2人は兄弟)は、言葉を身につけられないのでは、と普通なら考えますが、それでも両親の信仰のもと育てられ、手話もそうですが、何より今は牧師としておふたりとも福音を語られています。
はい、ポイントはまさに誰に助けを求めるかです。神様に、です。どんな絶望下にあっても。その道の専門家に任せるのが一番、その専門家は、全てに勝る神様以外にはいません。師の話もそうです。師以上になろうと押しのけるのではなく、むしろへりくだり、学ぶのです。師、本当の師たるイエス様は共に軛を追ってくださり、学ばせてくださる。そしてあなたを導き、その栄光を表されるのです。ちりと梁もそうですね。じゃあ問題や何やらがあると気づいていても、それを誰に取り除いてもらうのか?お互いが採れないのに。でも、イエス様が助けてくださる。どうしたら良いか、何を語るべきか、その舌においてくださるのです。
更にイエス様は良い身と悪い実の話、良い人と悪い人がどの蔵からどりだすのか、語られますが、まさに良い木から私たちは良い実を結「ばせていただける」、神様のみ心という最高に実がなり、そこからさらに神様の栄光が現されるのです。蔵もそうですよね。神様の蔵は、無尽蔵。質も最高です。
神様助けて、と求めるのは大いに結構です。でも、自分の求めるものが出てこなければ諦めて捨てる、それでいいのでしょうか。私たちは掘るだけで留まって、掘って掘って掘りまくることを忘れていませんか?見た目で諦めるのではなく、神様のくださる恵みを求める事をを忘れていませんか?私たちは本当の大事ないのち、私たちを支え、養い導いてくださる神様の素晴らしさを私たちは求め続けようではありませんか。神様は惜しまず与えてくださります。
イエス様はむしろ私たちに最高の測り知れない愛を、すべてを与えるため、永遠の命を与えるため、私たちの針を取り除き、良い身を結べるよう整え、また目を開くため、何より罪を取り除くため、私達の身代わりに十字架にかかられ、その命という代価を支払ってまで私達を救わんとされたのです。そして3日目によみがえられたことによって、私達の罪を取り除き、新しくしてくださる。目を開き、神様の御光で導いてくださる。
私たちは今日、このイエス様の命がけの愛によって開かれた蔵から、イエス様が与えてくださる最高の恵みに生かされ歩もうではありませんか。神様の家には私達が持てる財産では測り知れないほどのベストが備えられている。それは尽きることがない。私たちは求め続けましょう、イエス様に。そうすればイエス様がベストを持ってあなたに応え、導かれるから。
