ー秋の祭り2:ある意味では毎日が祭りー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。』」

レビ記23章26-32節

 

ある時、私は永遠の命、ということに怖さを覚えたことがあります。永遠、ということは終わりがないということ、それが想像がつかない。理系の私だから余計に永遠、ということがどういうことなんだろう、と疑問に思い、当時通っていた教会の長老さんにその疑問をぶつけた所、「そうだな、大好きな人と映画をずっと見ている感じかな」と応えてくださった。イマイチその時はピンとこなかったのですが、いつも大切な人、もっというと神様と一緒にいられる、それほどの恵みはないな、と思いますね。それは天国に行ってからではない、その前味を今も味わわせていただける、それはある意味毎日が祭りのようなもの。だからこそ、私たちはいつもこの神様からはなれず、友に歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は秋の祭りの「ラッパの祭り」に続く「贖罪の日」について、「神様」が定められた例祭になります。昨日、秋の祭りについて入力していた時、贖罪の「日」?祭り?勘違いしたのかともっていましたが、やはり贖罪の日なのです。贖罪の日がなぜ祭りなのか?とおそらく思われる方もいると思います。私も、改めてなんでだろう、とこの箇所を読みながら思いました。しかし、この「贖罪」はただ罪を罰するために何かで贖わせる、というものではない、神様の大いなる恵みに繋がらせていただく、本当に素晴らしい祭りなのです。後の時代、終わりの時代にこの贖罪の日がどういう意味を持つのかについては後半で見ますが、昨日のラッパの祭りと同様、やはりとても大切な意味を持っています。

 

終わりの時代、と切り離して見ているのは、昨日のラッパの祭りについてと同じなのですが、確かに終わりの時代について神様はここでモーセを通して啓示されているのですが、今を生きる彼らはその祭りを行うのですから、彼らに「今」訴えていることもあるのです。

 

では神様は、彼らの当時の時代にまず何を訴えたかったのか。神様はモーセを通してこのように方られます。「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない」と。

 

今の太陽暦で言うなら9月くらいに行われる祭り、「贖罪の日」ですが、神様は「あなたがたのための」「聖なる会合」となる、と語っていますね。これは、彼らのため、また私たちのために行われるもので、かつ聖なる会合、神様が聖なる日にしてくださる、聖を注がれる日となるのです。

 

なぜ贖罪の日が祭りなのか、まずその理由がここにありますね。「神様が」聖なる会合に、あなたのためにしてくださる、それは喜びであり、祭りそのものですね。この日も仕事をしてはならない、とありますが、昨日も分かち合わせていただいたように、神様はその日仕事をしなくても十分な恵みを持っていつも養ってくださっているのです。食料、マナを日々与えてくださり、安息日の前日には2倍(2日分)の量を与え、十分なのです。しかも安息日は神様が祝福してくださる日、もうこれだけでも十分祭り、喜びの日と見ることができますね。

 

でも、それだけではないのです。昨日もこれまた分かち合いましたが、神様の愛に空白の期間は基本ありません。私たちが神様から勝手に離れていって捨てるとかそういうことでもない限り。神様は御手を伸ばされている、その御手を私達が取らせていただくかどうかの問題なのです。神様は、↑で語られているように、神様から断ち切られる、滅ぶことを望まない、代々にわたりその恵みを注ぎたい、だからこそ、私たちは神様に立ち返る、「贖罪」、罪を贖われ、神様の永遠につなげていただけるのです。何と感謝なことでしょう。神様が彼ら、私たちのために用意してくださっている聖なる時に招かれているのですから。一体それはどれほどのものか。計り知れないものがあるでしょう。

 

ただ、罪を犯したから生贄をささげる、それによる代替、贖罪では限度があります。しかし神様は彼らを、私たちを捨てることができない。そこで御子イエス様に私達の罪を贖わせる「贖罪」として、生贄の身代りに神の御子たるイエス様がなられたのです。そして十字架で屠られ、死んで葬られ、陰府にくだり、3日めによみがえられた。そうして私たちを完全な贖罪の日、救いの日に招かれたのです。そこは神様の家族、恵みの場所、神様が聖なる会合にしてくださるその恵みに招かれたのです。永遠の約束、愛なのです。

 

一方で気になるのが「その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない」という神様の言葉。そこまで愛されているのになぜこんな厳しいことを?贖罪、イエス様の命をもって聖なる会合に招かれることほど、神様の恵みの中、命の中歩ませていただけることほど感謝なことはありません。まずここに招かれているのです、神様は。

 

しかし、残念ながらイエス様を拒否した人たちが今から約2000年前にいました。ユダヤ人たちですが。度もイエス様の福音を聴いていた。イエス様を迫害していたパウロも悔い改めてこの恵みに招かれた。しかし最後まで受け入れなかった、身を戒めない、悔い改めず、神様から離れてしまっていた民がいたのです。

 

しかし、神様の愛に空白はない、というように、終わりの時に、「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」とパウロを通して神様は啓示されましたが、残された民のために神様は最後の贖いの日、救いをそれでも示される、後の未来の話だから私もはっきりとはわかりませんが、ただ言えることは、残された民もイエス様の救いについて、もう一度目が開かれ、救いの時、贖罪の日が来るのです。患難時代にあって、神様はそれでも彼らを守られる。

 

その日はいつ来るかわからない。終わりのときがいつ来るかはわかりません。しかし、そこまでも愛してマスタープランをもっておられる神様の御前に、御子イエス様のいのちを差し出してまで愛された私達は今、どう応えるでしょうか。いつか、という日がいつかはわからない。でも今私達が生かされている中で、神様はあなたを贖罪の日、イエス様の救いによって、聖なる会合、神様があなたに用意されている神様の家族、食卓へと招かれているのです。神様の子として招かれているのです。貴方は今日、神様が用意された最高の愛、贖罪の愛を受け入れるだろうか。そこまで愛されたイエス様があなたと共に歩まれる、その日々を喜び、御心を求め祈りつつ歩もうではありませんか。