「ついで主はモーセに告げて仰せられた。『アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるものとすべきものである。わたしは主である。彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人が主のために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしは主である。アロンの子孫のうち、ツァラアトの者、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしは主である。彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別する主である。一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。祭司の娘が一般の人と結婚したなら、彼女は聖なる奉納物を食べてはならない。祭司の娘がやもめ、あるいは離婚された者となり、子どももなく、娘のときのように再びその父の家に戻っていれば、その父の食物を食べることができる。しかし、一般の者はだれも、それを食べてはならない。だれかが、あやまって聖なるものを食べるなら、それにその五分の一を足して、その聖なるものを祭司に渡す。イスラエル人に、その主に奉納する聖なるものを汚し、聖なるものを食べて、その罪過の咎を負うようにさせてはならない。わたしは彼らを聖別する主だからである。』」
レビ記22章1-16節
私が結婚する前に、妻の両親に言われたのが、「問題や喧嘩はその日の内になかなおりするようにね」とアドバイスを貰ったのを覚えています。これがなかなか人間難しい所。他の夫婦の話を聞いてもそんなすんなりはいかない、と。そういえばその根拠はどこにあるんだろう、とふと思った時に今日の箇所に気付かされました。神様は1日をとても大切にしておられる、というよりも、一日一日、最高の恵みを注ぎたい、だからこそ神様に立ち返ることを願っておられる。私達はいつでも神様を求めよう。神様の注がれる聖なる愛を受け、歩もうではありませんか。
さて、↑は21章で見たように少々悩ましい箇所なのですが、祭司は聖くあること、そして不完全である中にあって神様の恵みにあって聖く近づかせていただける、その恵みが注がれる、というところまで見ましたが、この22章では聖さを保ち続ける、という意味で、↑にあるような「ツァラアトの者、または漏出のある者、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、また自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べ」る人は汚れ断ち切られる、というのです。
以前、強盗に襲われた人を助けなかった祭司、レビ人の話を分かち合いましたが、ある意味↑のケースを見るとわからないこともありません。それでは奉仕に出かけても、その任を全うすることができないからです。しかし、強盗に襲われた人は、まだ死んでいたわけではなかったのです。とするならば、むしろ彼の介抱をしたサマリヤ人のように、近づき、せめて手当てするなどできたのではないか。イエス様がなぜ、これを問題視したか、それは、まさに聖を現す、ある意味で神様から使わされ、任命されたはずの祭司がその栄光を表さなかった、そこにあるのです。
確かに↑で「神様」が規定しているのですから、断ち切られる、ということはあったのでしょう。しかし断ち切りたくないからこそ神様は語られたのではないでしょうか。聖なる絆で結ばれ、神様が注がれる聖さ、祝福の内に生きてほしいのです。
そういえば、イエス様はこのように勧めていますね。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります」と。
神様は、私たちが神様を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛しなさい、と仰りますが、仲直りせずに神様のところに捧げ物をしにいって、それがどうして聖い捧げ物と言えるでしょう。実際、人類初の殺人事件となったカインとアベルの時も、カインの心を見て、彼の生贄を神様は受け取らなかった、ということもありましたし。そして神様のなだめがあったにもかかわらず、和解に至らず、ついに人類初の殺人事件へと発展し、ついにカインは切り離されることとなったのです。
ただ、アダムの娘が彼と結ばれ、また町を築いていきましたし、神様もカインに復讐されないよう助けてもくれた。しかし、それでも彼は神様に立ち返ることなく、彼の一族は滅びていく(断ち切られる)事となっていくのですが。
そういう意味で、神様との関係、その祝福の中にあって生きる一日一日を蔑ろにしてはいけない、神様が与えてくださっている一つ一つの恵みを汚してはいけないのです。それは与えられている家族、仕事、環境内においても↑の後半でみるように、同じです。
ただ、神様は↑で「このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。…彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別する主である」と仰られていますね。
日が沈めば、というのは当時のイスラエルは日が沈むところで一日が終わる。つまり一日の終りです。神様は私たちが様々な問題や思い煩い、何より罪によって、神様から断絶され、霊的に死ぬことを望まない、聖い御霊によって私たちを導いてくださるのです。それに私たちが応えるかどうか。神様は、同じ食卓に私達を招いてくださる、私たちをだんぜつするのではなく、神様の喜びで満たし、また養い、力づけたいのです。
1日1日は神様が私たちに与えてくださる恵みです。私達の周りには様々な問題や思い煩うことがあるかもしれない。しかし、私達のこの思いを清めていただこう。神様は聖別、私たちが聖であることを何より願っておられるゆえに、その恵みを私達に一瞬一瞬、一日一日、注がれるのです。私達の穢を洗い流すため、思い煩い、痛み、何より罪を一切取り除き、断絶された関係を神様の食卓、和解に招くため、御子イエス様を身代わりに十字架に変え、死なせたのです。しかし3日めによみがえられたことによって、私たちが身を洗う、イエス様の救いを受けいれるとき、この神様の食卓に招かれる、聖なる絆、神様のかぞくに招き入れられるのです。
あなたは、私たちは神様から与えられた一日をどのように生きるだろうか。汚れ云々の前に神様はいつでも私達の前に命の道を用意してくださっている。神様が造られた素晴らしい一日一日が広がっている。私たちはこの神様が与えてくださる恵みのなか生かされ、歩もう。天の御国に行くその日まで。私の望みではなく、神様の栄光、御心がなることを祈りながら。
