「『…いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。…』」
ルカによる福音書6章21節
ある人は聖書と現実、神様のおっしゃることはかけ離れている、と言う、でも神様はあなたのことをまるごと愛している。現実と、宗教とか、そういう境目などない。あなたそのものを愛してくださっている。逆に現実しか見ない某カルト団体しかり、私たちも現実と神様を切り離すのではなく、むしろ神様のうちに憩わせていただき、生かされ歩みたいものです。
さて、↑はいわゆる12弟子を選んだ後、イエス様が語られたことなのですが、マタイによる福音書にも同じようなことを語られているのですが、ルカでは平地で話されていること、またどうも若干言葉が違う部分がある(表現の問題ではなく、言葉そのもの)ので、イエス様は大事なことはきっと何度も私たちに語られるんだな、と思う。私たちは馬耳東風ではありませんが、聴いたときはよしっと思いますが、また抜けていってしまう。私たちは救われたからもう良い、聖書も一度読んだから良い、ではなく、いつも祈り、また御言葉に聞き、そうして養われていくんだな、と思わされますね。
で、前回は「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」でしたが、今回はその続きです。イエス様は、続けて「いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから」と語られます。それで、この「貧しい」という言葉には2種類どうも言葉・意味があるようで、1つは働かなければ食べられない貧しさ、余計なものはない貧しさという意味。もう一つは、なにもない、極貧状態で、他人に助けられてようやく命をつなぐほどの貧しさを現す言葉です。
このルカによる福音書、平地の説教(マタイによる福音書は山上の垂訓と呼ばれていますが)では、後者の方の言葉が使われています。その人を目の前に、イエス様はいつかお腹いっぱいになるから、それまでは我慢していてね、とは流石に仰らないでしょう。イエス様はそうした本当にどうにもならない、どこか疾患を抱えていたり、誰かの助けがなければ生きていけない、そういう人たちのところに現実に訪問され、また癒やされていました。
イエス様は、今、そしてこれからも私たちの全てをご存知で、だからこそ語られるし、必要を満たしてくださる。何が幸いって、そこに私達はイエス様なしには生きられない、いや、イエス様しか与えることのできない恵みを受ける、やがては私たちはその恵みで満たされる。前回の霊において貧しい人、の話を分かち合いましたが、私達がイエス様を本当の意味で受け入れる時、私たちのうちに日々、イエス様しか与えることのできない最高の恵みが満ち溢れるのです。現実が苦しい?その現実にまでイエス様の栄光が溢れ広がるのです。
時にはイエス様が「いま泣く(最大級の悲しみを意味する言葉)者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから」と仰るように、もう、どうしようもなくつらい、日もあるでしょう。何より私たちは自分たちにとっての最大の悲しみ、罪によって神様から引き離される、その悲しみでどうにもならなくなるはずだったのに、イエス様が私達の罪を取り除くために、十字架に身代わりに背負われ、身代りに罰せられ、死なれたのです。でも死は死で終わらない。イエス様が復活なされたことによって、このイエス様の救いを受けいれるとき、私たちの罪は帳消し、イエス様にあって精算される。そしてこの復活のイエス様が私達のうちに住まわれる、いや神様の子として私たちを受け入れ特権が与えられる。その中で私たちは笑いに満ちる、最大級の悲しみから、最大級の喜びへと変えられていくのです。
私達はこのイエス様の命がけの愛をもって与えられる、イエス様しか与えることのできない愛、恵みに満ち溢れさせていただき歩もうではありませんか。自力で無理に我慢する必要はない。イエス様が涙を拭い取ってくださる。イエス様のみ心を、御国を待ち望もう、祈ろうではありませんか。
