ー清潔?聖潔?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…次のことによっても、あなたがたは汚れたものとなる。すなわち、これらのものの死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。また、これらのどの死体を運ぶ者もみな、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。ひづめが分かれてはいるが、それが完全に割れていないか、あるいは反芻しない動物、これらすべてはあなたがたには、汚れたものである。これらに触れる者はみな汚れる。また、四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くものはみな、あなたがたには、汚れたものである。その死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。これらの死体を運ぶ者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。これらは、あなたがたには、汚れたものである。地に群生するもののうち、次のものはあなたがたにとって汚れている。すなわち、もぐら、とびねずみ、大とかげの類、やもり、わに、とかげ、すなとかげ、カメレオンである。すべて群生するもののうちで、これらはあなたがたには、汚れたものである。これらのものが死んだとき、それに触れる者はみな、夕方まで汚れる。また、それらのうちのあるものが死んだとき、何かの上に落ちたなら、それがどんなものでも、みな汚れる。木の器、あるいは衣服、あるいは皮、あるいは袋など、仕事のために作られた器はみな、水の中に入れなければならない。それは夕方まで汚れているが、そうして後きよくなる。また、それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない。また食べる物で、それにそのような水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲む物で、このような器の中にあるものはみな汚れる。さらに、どんなものでも、その上にこれらの死体の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ、炉であれ、それを粉々に割らなければならない。それは汚れており、あなたがたには汚れたものとなる。しかし、泉、あるいは水のたまっている水ためはきよい。ただし、それらの死体に触れるものは汚れる。また、もしそれらのどの死体が、蒔こうとしている種の上に落ちても、それはきよい。しかし、種の上に水がかけられていて、その上に、それらの死体のあるものが落ちたときは、それはあなたがたには汚れたものである。あなたがたが食用として飼っている動物の一つが死んだとき、その死体に触れる者は夕方まで汚れる。その死体のいくらかでも食べる者は、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。また、その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。また、地に群生するものはみな忌むべきもので、食べてはならない。地に群生するもののうち、腹ではうもの、また四つ足で歩くもの、あるいは多くの足のあるもの、これらのどれもあなたがたは食べてはならない。それらは忌むべきものである。あなたがたは群生するどんなものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。またそれによって、身を汚し、それによって汚れたものとなってはならない。わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。』以上が動物と鳥、また水の中をうごめくすべての生き物と、地に群生するすべての生き物についてのおしえであり、それで、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが区別される。」

レビ記11章24-47節

 

このご時世、色々清潔に気をつけるようになってきていますね。私が東京で仕事をしていた時には、電車の吊り革には掴まれない、何がついているかわからないから、というくらいの人もいました。まあ、分からないこともないですが。神様は昨日の箇所でも見ましたが、私達の健康、いや私たち自身を心配されている。私たちが安全に生きられるよう助けてくださる。私たちはちょっとしたことであろうと、神様に相談していい。神様は応えてくださる。

 

さて、↑は昨日の続きになりますが、汚れたものから離れる、ということをざっくりいうと↑の『』内では語られています。もっというと感染から身を守る、もっというと、神様の聖さによって守られるよう導かれています。

 

前半部はまず、死体に関することです。私も介護の仕事をしている関係でエンゼルケアに関わったことがあるので、これは抵触していますね。他、葬儀屋さんなどは困ってしまいますね。まあ、これゆえに実は祭司が怪我で今にも死にそうな、強盗に襲われた人を助けない、などと言った話をイエス様がされていましたが。逆に、その強盗に襲われた人と対立するサマリヤ人が彼を介抱したのですが。

 

一体何が正しいのか?神様が言っていることが間違っている?時代が変わったから?違う。本当に汚れていることとは何なのか、です。極論罪です。イエス様が話されたその強盗に襲われた人の話を考えると。途中、衣服の感染についても出てきていますが、私たちは汚れている問題、そうしたものに身を包んではいけないし、そこから離れる必要がある、むしろ神様の愛に包まれる、命の衣を着せていただく、変えて頂く必要があるのではないでしょうか。

 

じゃあどうして死体に触れてはいけない、というのか。むしろ逆。イエス様も、この後神様もモーセを通して「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とおっしゃられます。全ての律法はここに集約する、と。困っている人を見捨てることが正しいですか?それこそ死んだ行いではないですか。イエス様はこのことについて何度も触れましたね。

 

そういう意味で、罪から離れる、それが死体に触れない、というところなのかもしれません。12弟子の一人で、使徒でもあったヨハネは手紙に晩年このように書き残しています。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」と。

 

私たちはむしろ神様の愛に触れ、神様に繋がり、↑の途中で感染問題が出てきますが、むしろ良い意味でのインフルエンサーになりたいものです。私たちが神様の聖潔によって満たされ、変えられ、また願い、祈る中で神様の栄光が現されるように。イエス様は私達の罪を洗い聖めるために私達の罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれました。しかし3日めによみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を許し、神様のことして聖めてくださるのです。新しくしてくださるのです。

 

パウロは手紙にこう書いています。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えていただきなさい」と。↑の後半では聖い動物が死んだ場合は食べない、とありますが、何が正しいか私たちにはわからない。でも神様はすべてのことを働かせ、益としてくださる、完全に御心を、善を、聖を現される。

 

だから、私達は↑で神様が「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」と語られているように、神様の聖潔によって本当に生きたものと変えていただこう。この世のインフルエンサーから受けるのではなく、神様からの良い恵みに生かされ歩もうではありませんか。神様こそ最高の聖なる方なのだから。