ー日々是記念日ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」

出エジプト記12章5-14節

 

ネットなどを見ていると、だいたい今日は何の日、というのがあてがわれている。数字の語呂合わせだったり。でもそうしていくと、その日の価値が逆に下がってしまいそうですね。その〇〇の日の、〇〇ばかり考えて、本質的な神様が与えてくださっている日、この中に注がれる恵みを見落としてしまいそう。私たちは救われたからこれで終わり、ではなく、いつもいつも神様の恵みに生かされ、歩もう。神様はいつでもあなたを招かれているのだから。

 

さて、↑はモーセとアロン対ファラオ・ラムセス2世の直接対決は9つの災いを持って彼らを支配する偽神を討ち、同時に神様を知らない人たちが神様に立ち返る機会となるよう、その御技を神様は表されていきました。しかしなおファラオは頑なであり、そしてついに最後の審判がエジプトに降る、そのための準備について神様が語られた中盤部が↑。

 

さて、神様はいよいよエジプトに最後の災いを降そうとされます。しかし、神様はそれでもこれまで何度もそのくすしい業、またそれを見て悔い改め立ち返った人もいたように神様はいつでも私たちに恵みの御手、救いの見てを伸ばされ、道を開こうとされている、このことを私達は忘れてはいけない。神様は私達を忘れてはおらず、神様はイスラエルが奴隷状態にあることに心を留められ、降りてこられたのです。決して忘れているわけではなかった。いつも苦しい中にあっても導かれている。

 

ただ、いつかは取り返しのつかない時が来る、終わりの時が来る。神様、ひどい、と思う人もいるかも知れませんが、神様はすでに救いの道を示し、あの十字架からすでに2000年近く経っています。あの隣国のN朝鮮にさえクリスチャンが隠れながらもいるくらい。中国のクリスチャン人口に至っては、日本のクリスチャン人口の8倍近くにまで及ぶという。神様はご自身をたしかに、こんなところ、と思うところにさえ現される。

 

一般的にもそうでしょう。何かをしてバレなかったら繰り返す、そのうち実は気づかれていて逮捕、などということもある。喧嘩が行き過ぎて取り返しのつかないことになることもある。互いに。それは私たちは完璧な人間ではありませんよ?だからこそ私たちには神様が必要なのです。神様はいつでもあなたが求めるのを待っておられるのですから。どうしたら良いのか、知恵を与えてくださる。それに従い、恵みを得るかどうかはあなたの決断次第ですが。

 

話を↑に戻して、10番目の神様からの厄というか裁きは「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である…」というものでした。

 

神様は続けて「この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる」とも仰られています。そう、神様とあなたが一つとなる、と言うより一つの家族として迎え入れられる、その記念。そういう意味で、これから使われるいけにえは傷のないものでなければいけない、神様との関係は傷のあるものではなく、神様の命で結ばれた恵みのものである、ということ。結ばれている、これから出エジプトしていく中で神様が先頭に立って導かれていく(昼は雲の柱、夜は火の柱となって)ように、私たちと神様の関係はそうして繋がれていくのです。やがてくる終わりの日まで、ないしあなたのこの世の寿命を終える日まで。神様との関係において、そういう意味でも適当なものであるべきではないし、逆に神様も中途半端なものを注ぎたいのではなく、全力の恵みをもってあなたを日々導かれるのです。

 

私たちはみな神様の作品です。聖書に「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」とありますが、善い行いをさせてくださるのです、そう歩めるように助けてくださる、必要をいつも、あのエデンの園がそうであったように備えられているのです。そのあなたが滅びることを望まない神様だからこそ、裁きを過ぎ去りたい、とあなたに救いの道を備えられた。ただの10番目の裁き、ではなくこれを受け入れる、神様を受け入れる人にとっては裁きの日ではなく、救いの日、喜びの日、記念の日となるのです。

 

そしてそこから全ては始まっていく。この先紅海を渡る、という有名な話がありますが、そこを通ったから初めてはじまるのではない、この記念の日から道は開かれる。そのために神様はイスラエルの民に「イスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである」と告げられました。

 

なんで罪のない羊を?と思うかもしれない。しかし、神様はあなたのためになら、惜しまない。イエス様という御子イエス様、罪のないこのお方さえ惜しまなかったのです。この方の血がまさにあなたという人そのものに塗られる。イエス様はその血を十字架で流され、あなたを暗闇、陰府、死、サタンの門からいのちの門へと引き上げられたのです。十字架で死なれ陰府に降ってまで。苦菜、とでてきますが、私たちはその苦い罪を身代わりにイエス様が味わわれた、死を味わい、悲しみを言ってに引き受けられあなたを開放された、まさに同じことがこのエジプトで起こされたのです。

 

私たちは残すことなく日々、この命がけの愛によって与えられた肉、いのちを味わい、歩もうではありませんか。しっかりと備え、しっかりとイエス様と帯で繋がれ、ともにどんな時も進もうではありませんか。神様は永遠に守るようにおっしゃられた、ということは永遠にあなたを導かれる。私たちはこの救いの杖、いや神様がともにおられる喜びに、御子イエス様のいの血さえ惜しまず与えるほどに愛される神様が世の終わりまで導かれるという喜びにあふれ歩もうではありませんか。神様はあなたに災いではなく良い、最高の計画を用意し、あなたを導かれるから。