「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。光は快い。太陽を見ることは目のために良い。人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。」
伝道者の書11章6−10節
私は3歳から母にピアノを教えてもらい、13歳まで(7歳からは牧師婦人)習っていました。やめた理由は、当時、男がピアノをやるのは格好悪い、と思ったから。本当にもったいないな、と今考えると思う。楽譜は読めても当時ほど手は動かない。色んな分野でもそうでしょうが、日々の鍛錬を欠かしてはいけないものもある。神様との関係ならなおさら。神様は生まれる前から死して後まであなたを恵みで満たし、導きたい。私たちは点で神様を求めるのではなく、いつも神様を求め続けよう。神様の恵みがあなたの全生涯に渡り満ち溢れることを願い。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンの書き残した伝道者の書11章後半部になります。最初の「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない」という部分は昨日も少し触れましたが、これは後半部に欠かせない鍵となる言葉なので、今日もここから最後まで見てみたいと思います。
現代を見回してみると、この先わからないことが非常に多い。だからしょうがない、と諦めるのではなく、あるいっ時、とりあえずやってみるか、と種をまくのではなく、終わりの時まで巻き続ける、神様に求め続けること、これほど私たちにとって大事なことはない。というのも、神様はあるいっ時だけあなたを愛します、導きます、でもでいるだけ頑張ってね、わたしは忙しい、あなたにかまっている暇はないんだ、なんておっしゃる神様ではない。
パウロという人は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と勧めています。裏を返せば神様はいつもあなたの祈りを聞いているし、あなたのうちに御心を現したい、と願っておられる。私達を神様にある喜び、感謝を捧げられるような状況に導いてくださる。どんな逆境のときであろうと。だから、救われた当初とか、ある一時だけではなく、終わりの時まで、この神様を求め続けよう。神様もあなたに惜しむことのない愛、御心を現してくださるから。あきらめて神様を求めるという種まきをやめてはいけない。
そのうえでソロモンは「光は快い。太陽を見ることは目のために良い。人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない」と語ります。はい、比喩的な内容だということは誰が見てもわかりますよね。太陽を直視したらどうなるかなんて誰でもわかりますからね。じゃあ神様は悪いものを造られたのか、と言われたらそうではない。
創世記に、というよりも天地創造時、4日目になりますが、その時の様子について、アダムに、そして口伝で子孫たちに知らせ、おそらくモーセがこれを最後に聖霊様に導かれ、記述として残したのでしょうが、こうあります。「神は仰せられた『光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。』そのようになった。神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第四日」と。
ご存知、これが太陽、月、天を見上げ見られる星が創られた時の様子です。神様はただインテリアとしてこれらを作ったのではない、神様は私たちが生きるために必要な太陽、月、星々を創られたのです。これほどまでに素晴らしいものを創られた、この神様があなたを造られた。しかも非常に良かった、と。天体以上に評価されている。神様はあなたを最高傑作として創られた。神様のイメージに似せて。これ以上素晴らしいことはない。
じゃあ↑にある闇は?と思いたくなるところですが、暗い間も守られるものとして月や星を作られ、さらには光と闇とを区別するようになった結果、それを良しとした。どっちがいい、じゃない、どちらも神様は良しとして導かれるのです。暗い時は寝て勝手にしてなさい、ではなく、私達が暗闇の中にあっても神様が私達を照らしてくださる。太陽を直視するのではない、太陽が、月が、星星が素晴らしいのではない、それらを作られた神様が素晴らしいのです。だから、光は快いし、太陽を創られた神様を見上げることは私たちが暗闇に陥ることがないよう、その道を照らしてくださる。たとえ闇の日が数多くあろうとも、同じ神様が導かれるのです。
辛いことが世の中たくさんあるのは重々承知しています。私もそれらを無視しているわけではないですから。ただ、もっと無視してはいけないのは、そのあなたを神様は心配していること、あなたの祈りを聞かれる、心配されている、ということ。神様はどんなときであろうと見捨てないし、明るい日は自分で大丈夫、ではなく、むしろもっと神様を求めようではありませんか。「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい」というように、神様が、あなたを楽しませる、それを私達は喜び受け取る中に私たちは神様の素晴らしい恵み、ご計画、栄光を仰ぎ見させていただけるのではないでしょうか。
一方でソロモンは逆説的に「すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ」と語ります。虚しいことを楽しみ、それによって、また世の思い煩いにあなたを支配させるのでもなく、その先に見る残念な刈り取りよりも、神様の素晴らしい恵みを刈り取たせていただこうではありませんか。人は巻いた種は良くも悪くも必ず刈り取ることになる、それは聖書を知らない人でも体験されているのではないでしょうか。
ソロモンは11章最後に「だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ」と記します。そんな事ができるならとっくにやっている。しかし、それを取り除くことができるのは神様なのです。あなたのことをじゅうじゅう知っておられる、心配しておられる神様です。あなたに刺さる遂げ、悲しみ、肉体の痛み、何より十字架による罪・死を打ち破るため、神様は御子イエス様に身代わりに十字架にかけ、罰し、死なせたのです。そして3日目によみがえられたことによって、これらに完全に勝利してくださったのです。このイエス様の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、同じ復活の恵みに招かれ、神様の子とされる。
あなたの若い日も、あなたの青春時代も、神様が導かれる。壮年、老年期、変わらない。私達はそのような棘に、思い煩いに、罪に、サタンにあなたを支配させてはいけない。いつも照り輝かせ、導いてくださる神様を見上げよう。どんな時も。そしてこの神様が立てあげる新しい命のうちを歩もう。命を賭けてまであなたを救い出された神様のご計画に信頼し。
