ー与えられる最高の財産ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。その日、―主の御告げ―わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。わたしは足のなえた者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。羊の群れのやぐら、シオンの娘の丘よ。あなたに、以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る。なぜ、あなたは今、大声で泣き叫ぶのか。あなたのうちに王がいないのか。あなたの議官は滅びうせたのか。子を産む女のような苦痛があなたを捕らえたのか。シオンの娘よ。子を産む女のように、身もだえし、もがき回れ。今、あなたは町を出て、野に宿り、バビロンまで行く。そこであなたは救われる。そこで主はあなたを敵の手から贖われる。今、多くの異邦の民があなたを攻めに集まり、そして言う。『シオンが犯されるのをこの目で見よう』と…シオンの娘よ。立って麦を打て。わたしはあなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利得を主にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる。」

ミカ書4章5−13節

 

呼び出しなどをされるとちょっとびっくりしますよね。私の体験の中では、小学6年の時、校長室に呼び出されました。なんだろう?と思って入室すると、なんと私立中学受験者全員集めて、激励をしてくださった。当時受験者の中で一番出来の悪い私にさえ。私の与太話などどうでもいいのですが、神様は、私たちに御目を注がれる。だからいつもあなたに語りかけたいと、私たちが耳を傾け、心を向けること、あなたの叫びを神様に向けることを待っている。神様はあなたの回復を願い。私たちはこの声、招きに応答し、神様に帰ろう。神様のくださる最高の財産を持って生かされ、歩もう。

 

さて、↑は神様が預言者ミカを通して語られた預言の続き。この時代、南ユダはアッシリヤと同盟を結びながら他国と手を結ぶ八方美人になったり、国内では富裕層が貧困層から搾取する、公義を曲げ、あまつさえ、国内の、同じ民への愛さえ忘れていた。ここまでの預言で神様はこれらの罪について指摘をしていた。でも、罪を指摘する、間違えを指摘する、ということは指摘しっぱなしではない、私達が回復し、本来あるべき姿に導かれるために語られている。

 

私も弱い点のひとつなのですが、人になにか言われるとまずかちんと来てしまう。これは、私の先輩牧師さんと話をしていた時も、そうですよね〜と妙に気があったのを覚えています。もちろんその時は信徒でしたが、痛いところをつかれたな、と思いつつ、それが人の弱さなんだ、と。でも、気づき、神様がもし語られるなら、それはただ罰して終わり、呼び出されて罰されて終わりなのではない、いのちへと導かれているということを私たちは忘れてはいけない。

 

神様はそれでも彼らを見捨てられず、預言者ミカを南ユダに遣わされた。彼自身もそのアッシリヤによって出身地は滅ぼされ、ペリシテの手に渡り支配下にある地にいた。こんな状態で神様の召命、呼び出しに信頼してどうなる?などととは思わなかった。彼は神様の招きに従い、ここにいのちがある、と信じ、神様に近づいていくのでした。↑の前の箇所では神様が招かれる山、主の家、固く崩れない、永遠に立ち続ける家に招かれているということを見ました。

 

言って何になる?こんな腐敗した状態の人たちに語って。起こった。神様が起こされた。神様は他の預言者もその地に遣わし、助け手はいたし、驚くべきことに嘆かわしい状態にあって悔い改めに導かれていき、ヒゼキヤ王の時代には、宗教改革が起こり、バビロン捕囚まで100年伸ばされた。さらに彼らを襲っていたあっ入や帝国のセナケリブは神様のみ手によって、自国に帰ることになり、そこで息子に討たれる。ありえないことが起こった。

 

神様を信じるということは夢物語でもフィクションでもない、リアルなのです。神様に頼る、従う、委ねる…そこには神様の栄光が現される。それがなにかはそれぞれでしょう。しかし、神様は罪の中に、暗闇の中に私たちがいることを望まない。だからこそ、罪に囲まれ、敵にも囲まれ、社会的問題にも貧していたところに変化が起こったのです。ありえないことが。神様はノンフィクション、小説でもない、事実。存在される方なのです。

 

それについて神様はミカを通してこのように語ります。「まことに、すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む。しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう。その日、―主の御告げ―わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。わたしは足のなえた者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」と。

 

神様の開かれた道に招かれる、それに応じるとき、悔い改め立ち返り、神様の開かれたこの道を進むときからもう恵みは始まる。天国に行ってから、とかなにか一生懸命償いをしたら、ではない。その前に神様は約束された。「その日、―主の御告げ―わたしは足のなえた者を集め、追いやられた者、また、わたしが苦しめた者を寄せ集める。わたしは足のなえた者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる」と。

 

もちろん完全な王国はまだ先の話です。が、私たちはこの道すがらにあってこの恵みを味わう。回復を受ける。私達の失った部分を回復させ、神様が新しくしてくださる。例え遠くに移され、ここに何の恵みが?と思う中にあっても神様が、強くしてくださる。神様が呼びよせられ、神様が共におられるから。これがどれだけ素晴らしい恵みなのか、あなたはどれだけ受け取るだろうか。神様は今も生きておられる。あなたを呼び寄せ招きたい。特別な人にではない、それだったら南ユダのこの腐敗状況では当てはまる言葉ではない。

 

↑の後半で、バビロン捕囚に言及されます。だからこそヒゼキヤ王はこのままではだめだ、と神様に立ち返り、これが引き伸ばされたのですが。と同時に確かに捕囚はあってもそこで神様は救われる、守られる。多くの助けを置かれている。ある瞬間だけ神様なのではない、いつもあなたの神様であってくださる。その神様故に、今、私たちは何をすべきか、こんな時代だからこそ、今こそ神様に立ち返り、神様のみ心がなること、神様のご支配・ご統治がなること、そのために私達自身を捧げる、委ねようではありませんか。

 

確かに、↑で「立って麦を打て。わたしはあなたの角を鉄とし、あなたのひづめを青銅とする。あなたは多くの国々の民を粉々に砕き、彼らの利得を主にささげ、彼らの財宝を全地の主にささげる」とあるように敗北に見える日があるかもしれない。しかし、私たちに神様が与えてくださる財産を、地を、御心を待ち望もう。神様は、あなたのいのちのためなら、あなたを救うためなら御子イエス様を惜しまない。神であられるのに人間として生まれてこられ、私たちの間に住まわれ歩まれ、愛を注がれた。どんなに裏切られ、罵られようと、最後まで愛を全うするため、十字架に私たちの罪を身代わりににせ追われ、罰せられ、死なれた。しかし、3日めによみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に立ち変えるすべての人の罪は赦され、神様のことされる。新しくされる。

 

↑の回復の約束、財産、これは夜の夜のものとは計り知れないほどの大いなるものです。なぜなら、これほどに愛される神様が、御子イエス様の命をかけてまで愛されてまで与えるものですから。私たちはこのイエス様にあって新しくされよう。イエス様は十字架の苦悶の中にあってもあなたを招かれる。復活の恵みへ、死から命へ、墓から引き出し、新しい恵みへ。あなたはこのイエス様の呼びかけにどう応答するだろうか。