「イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。ただ、のろいと、欺きと、人殺しと、盗みと、姦通がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は喪に服し、ここに住む者はみな、野の獣、空の鳥とともに打ちしおれ、海の魚さえも絶え果てる。だれもとがめてはならない。だれも責めてはならない。しかし祭司よ。わたしはあなたをなじる。あなたは昼つまずき、預言者もまた、あなたとともに夜つまずく。わたしはあなたの母を滅ぼす。わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。彼らはふえるにしたがって、ますます、わたしに罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。彼らはわたしの民の罪を食いものにし、彼らの咎に望みをかけている。だから、民も祭司も同じようになる。…それゆえ、あなたがたの娘は姦淫をし、あなたがたの嫁は姦通をする。わたしは、あなたがたの娘が姦淫をしても罰しない。また、あなたがたの嫁が姦通をしても罰しない。それは男たちが遊女とともに離れ去り、神殿娼婦とともにいけにえをささげているからだ。悟りのない民は踏みつけられる。イスラエルよ。あなたは姦淫をしても、ユダに罪を犯させてはならない。ギルガルに行ってはならない。ベテ・アベンに上ってはならない。『主は生きておられる』と言って誓ってはならない。…しかし今、主は、彼らを広い所にいる子羊のように養う。エフライムは偶像に、くみしている。そのなすにまかせよ。…風はその翼で彼らを吹き飛ばす。彼らは自分たちの祭壇のために恥を見る。」
ホセア書4章1−19節
日本のことわざに、風が吹けば桶屋が儲かる、というものがありますね。ある事象の発生によって、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶことを意味するそうですが。今良くても、後々影響が出ることも当然ある。バレなければいいと思って、バレてないから続けて、後で痛い目を見るとか。罪の怖いところですよね。罪のある所には祝福はない。しかし、聖霊様の風が吹く所にいのちが湧きいでる。あなたは今日、何を求めますか?
さて、↑は紀元前イスラエルの分裂時代、ホセアという預言者を通して神様が語られた、預言になります。ホセアは南ユダの王がはウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、北イスラエルがヨアシュの子ヤロブアムⅡ世が治めていた、その北イスラエルに向けて預言者として神様に遣わされていました。当時の北イスラエルは神様から離れ去り、ひどい状態だった。それは↑を見てもあきらか。
しかし北イスラエルが悔い改めることを切に願い、神様に立ち返ることを願い、神様は彼らを見捨てず、預言者ホセアを遣わしたのです。神様はあなたが滅びることを望まず生きることを願われる。だからこそ、神様は私達を導かんと、聖霊様を通して、御言葉を通して、祈りを通して導かれる。私たちはこの神様の声を聞き逃してはいけない。神様は語られる。
それは時に不思議な形を通したりすることがあります。預言、というくらいですからことばが↑のように語られるのかと思えば、↑の直前まで、姦淫の女性ゴメルと結婚、不倫され、離れるも、買い戻す、そういう出来事がありました。子供も3人与えられます。不倫の子であろうとも、不倫したゴメルであろうとも、賠償をゴメルに求めるのではなく、むしろホセアが代価を支払い買い戻し、家族として戻った。普通ではありえない。でもそれが、罪という恥を拭い去る神様の思いだったのです。いのちの実を私たちに結ばせたい、生きてほしい、と願われたのです。
その後、↑の預言がここから語られていくのですが、その愛に溢れた出来事の後に、上のような厳しいメッセージが語られる。そもそも神様は罪を罪のまま放置することはありません。一般的にもそうでしょう?もし罪を、いいよいいよ、ありのままでいいよ、と放置したらどうなるか、目に見えていますよね。同時に悔い改めの機会を奪うこととなり、一般的な言葉で言うなら、更生の機会を奪うことになる。神様は愛ですが、義でもあります。だから罪を放置することは出来ない。でも義でありあいだから、私たちが悔い改め命を得ることを願っておられるのです。
彼らの栄光を恥に変える、と↑にありますが、もしそこで自分の過ちに気づくならどうでしょう。その恥はやがて回復へと向かっていくのではないでしょうか。
↑を見ると何度も「彼らは…わたし(神様)に罪を犯した」と語られています。ここの「罪」ということばは、罪にも色んな意味があるのですが、ここの言葉の場合は的を外す、という意味です。だから本来私たちが向かうべき所に向かう必要があることを、この神様の訴えの中から見ることが出来ますね。うまくいかない、逆にうまく行っているように見えてどこかおかしい、とか。
実際↑で特に指摘されているのは繁栄の罪。別に栄えることは間違いではない。でも問題はこれをどう用いるか、それが問題なのです。神様は私たちに多くの賜物を与えてくださり、また、計画を持っておられます。必要は備えられているはず。しかし、正しく用いなければ意味がない。彼らは幾万の富を得ながらも、それを正しく用いなかった。
病人が多くなれば病院が儲かるように、当時、罪が多くなると得をするのは祭司たちでした。なぜなら、人々が持ってくるいけにえやささげものが祭司たちの生活を潤していた。それゆえ、北イスラエルでは多くの祭壇が造られ、多くの神殿が建てられました。もう目的がぐちゃぐちゃです。祭司は神様と民を結ぶもののはずが、自分たちが潤うためにこれらが建てられていく。本物の神様の神殿ではなく、3章までや↑の「姦淫」を見ると、バアルとか、偽神の神殿ですね。そうして、民は本当の神様のことがわからなくなっていく。
だから神様は「わたしは彼らの栄光を恥に変える」と語られます。「恥に変える」というのは、自分たちが築いてきたすべてのものが崩れて失望に終わること、狼狽して自滅することを意味することばです。それは私たち自身の手で築き上げたり、不正によって築き上げたと見はいつかは崩れ去ります。↑で風によって、とありますが、実際に彼らはアッシリヤという風によって吹き飛ばされ、北イスラエルは見るも無惨な姿となっていく。
私たちは何によって生きるのだろうか。罪、的はずれな道を歩み、悲しみに向かっていくのか、それとも、神様の吹かせてくださる風、聖霊様に生かされるか。神様のいのちの風は決して私達を倒れさせず、共にくびきを負い、世の終わりまであなたを導かれます。その中に神様の栄光を、御心を、私達自身では築けない、神様の御心という富が築き上げられていくのです。
そのため、イエス様があなたの恥を取り除くために身代わりに罪を背負わせ十字架に架かられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、イエス様の前に悔い改るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。その特権に預からせていただけるのです。
それはこの世の幾万の富にまさる喜び。神様ご自身が罪を風・イエス様の十字架によって吹き飛ばし、新しくされる。神様のみこころ、御力によって私達は神様のあなたに用意されている最高のあなたへとなることができるのです。していただけるのです。さて、あなたはこのイエス様の命という数には現せない幾万の富を頂いた今、どう生きるだろうか。彼らは間違った形、相手に祭壇を築きましたが、私たちは置かれた場所、遣わされた場所にあっていつも神様に祈りを捧げ、御心を願い求めよう。神様の栄光が輝くように、御心がなるように。神様は子羊を養われる。私たちは今こそ神様に帰ろう。神様の吹かれる風・聖霊様に導かれ歩もう。
