ー空気を読む読まないの話ではなくー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。エリフはヨブに語りかけようと待っていた。彼らが自分よりも年長だったからである。しかし、エリフは三人の者の口に答えがないのを見て、怒りを燃やした。…しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえるわけでもない。だから、私は言う。『私の言うことを聞いてくれ。私も、また私の意見を述べよう。今まで私はあなたがたの言うことに期待し、あなたがたの言い分を調べ上げるまで、あなたがたの意見に耳を傾けていた。私はあなたがたに注意を払っていたのに、ヨブに罪を認めさせる者はなく、あなたがたのうちで彼のことばに答える者もいない。…私は私で自分の言い分を言い返し、私の意見を述べてみよう。私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。私はだれをもひいきしない。どんな人にもへつらわない。へつらうことを知らないから。そうでなければ、私を造った方は今すぐ、私を奪い去ろう。」

ヨブ記32章1−22節

 

日本ではある意味では相手をおもんばかるというか、空気をよむというか、それによって本来進むべき方向に進めなくなることがある。傷をなめ合う、と言ったら言葉が悪いのですが、しょうがないよね、とか相手を思って本質に踏み込まない。でも、私達が神様のみ前に心を開く時、神様は私達の傷をえぐり出すのではなく、私達を命の道へと進ませる。悔い改め・方向転換、そして神様の本来用意されている恵みへと。私達の心は、目は、今どこに向かっているだろうか。

 

さて、↑は紀元前イスラエル民族が始まる少し前の時代に生きていたヨブの話。ヨブは神様を心から愛し、神様の恵みを求め生きていました。そんな彼を神様はいつも目に留めておられ、ヨブほど正しい人はいない、と喜ばれていました。しかしサタンは人間がそんな聖いはずがないじゃない、とヨブの財産や家族、健康など奪い、ヨブに神様を呪わせようとしかけます。神様なんて信じたって意味がない、まやかしだ、と苦しめようとする。

 

そんな中で3人の友人がヨブを慰めに来るのですが、ともに悲しみ、神様の喜びへと向かっていこうとともに祈るのではなく、かえって因果応報論や勧善懲悪、自分の経験などによる知識等によってヨブを苦しめる。ヨブもわかっている、でもなぜそんなことになっているのかわからない、でもこの神様にそれでも心を注ぎだす、そんなやり取りが続き、最後ヨブは、神様こそ知恵であり、その知恵にあって生かされ、しかし今苦しんでいる。しかしそれでも、自分は潔癖なんだ、と主張する。その続きが↑。

 

3人の友人たちもさすがにここまで正当性を訴えられたらもはやどうにもできない。そこで突如として登場するのが、若者エリフ。この後神様が登場するのですが、もしこのままエリフも登場せず、言葉を3人の友が失ったままだったらどうだったのか、と思う。悩みも解決せず、いきなり神様の登場していたら。

 

ふと思うのは、人は相手が傷つくことを恐れて言い過ぎることに躊躇する。いや、言い過ぎはもちろんメリット、デメリットはあります。よく悔い改めの話はその人を傷つける場合があるから、十字架復活の話はその人を罪人だ、と傷つけるものだから話すべきではない、ただありのままにあなたは愛されている、と語ればいい、なんて風潮がここ数何年も見られる。でも本当にそうなのだろうか。一緒に祈り、神様に立ち返っていく、神様の方に向きを少しずつ向けていく事の必要を思う。

 

イエス様はこう仰られた。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と。戒め、諭す、一緒に祈る、そして悔い改めへと進む、この必要を訴えられた。

 

というのは、悔い改め、というと罰、裁きのイメージがありますが、本質はむしろ、7度を70回、要するに何度でも赦す、もし悔い改めるなら。もっというと、悔い改めの意味はただの反省する、という意味ではなく、向きを変える、という意味がある。神様から背を向けていた状態から、神様の恵み、命の方向に背を向けていた状態から、本来あるべき神様の恵みの中に立ち返る、向きを変える、そういう意味もあるのです。

 

これまでどうして3人の友はヨブと一緒に祈らなかったのだろう、と分かち合ってきましたが、まさにそこをこれからエリフは弁証していく。ただ黙れ沈まれ、というのではない。ヨブも彼の意見についてこれまでのように反論することもない。エリフは、↑を見て分かる通り、「ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたから」、そして「彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったから」怒りを燃やした、という。

 

ただ若者だから黙って聞いていた、自分の言いたい事を言ったのではない。彼は「人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえるわけでもない」というのと同時に、「私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。私はだれをもひいきしない。どんな人にもへつらわない。へつらうことを知らないから。そうでなければ、私を造った方は今すぐ、私を奪い去ろう」とも言う。

 

ちなみに神様がヨブをこのエリフの弁論のあとに現れ、諭した後、3人の友人たちについては間違っているとし、エリフについては咎めない。彼は神様こそが義であり、その神様より義とするヨブと一緒に神様に向き合いたい、神様が語るその備えを、それこそバブてスマのヨハネがイエス様が来られるよりも前に先に道を備えさせていたように、したのではないか。

 

人間的な視点で彼を諭すのではなく、神様の霊が語るままに。これを言ったら彼はどうなるのか、とか考えなかった。いや、ヨブが自分が義としたことに怒ったことから察するに、彼は神様に委ねた、言うべきことを。神様が必要な言葉を置いてくださる、と信じた。

 

神様の義、これが彼のうちになることを、彼が神様にもう一度立ち返ることを願った。それはここに命があるから。神様は御子イエス様を私達の罪の身代わりに十字架にかけ、死なせるほどに私達を愛された。そして3日めによみがえらせたことによって、ヨブのようにどん底にいる、神様はいったいどこにいるんだ、と沈む私達を引き上げてくださる。信じるすべての人に。罪を赦し、神様の子としてくださる。これほどにあなたを神様は愛されているのです。

 

私達はこの世に対して慮り、もしくは諦め、妥協するのではなく、エリフのごとく神様を見上げ、神様の御言葉に耳を、目を、心を向けよう。神様はあなたを愛し、エリフを彼のもとに遣わしたように、イエス様を通して私達を導かれる。あの十字架によって、死へと追い込むのではなく、私達が方向転換し、神様の恵みを、命を受ける。その特権、恵みに生きられるよう、神様も妥協しなかった。私達はこの神様の愛、御心、御手から離れず、この命の道を歩ませていただこうではありませんか。世の終わりまでともに導かれるイエス様から離れず。この命にかけて、神様登場の前にエリフを遣わしたように、神様はいつもあなたの必要を覚え、導かれるから。