ーあなたが失われないためにー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、『だれを捜すのか』と彼らに言われた。彼らは、『ナザレ人イエスを』と答えた。イエスは彼らに『それはわたしです』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、『それはわたしです』と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。そこで、イエスがもう一度、『だれを捜すのか』と問われると、彼らは『ナザレ人イエスを』と言った。イエスは答えられた。『それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。』それは、『あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした』とイエスが言われたことばが実現するためであった。シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。『剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。』そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。」

ヨハネによる福音書18章1-13a節

 

○○に命を懸けているんだ、という人がいる。けど、本当に命を懸ける人はいない。だってそうでしょう?命を失ったら、そのかけていたものを得ることなどできないのだから。誰か、他社のためとなると余計にそうかもしれない。大切に思っている、でも命を懸けられますか?その人のために。まあ、塩狩峠や何年か前の某駅のホームから転落した人を命がけで助けた人もいましたが。イエス様は、あなたのためなら命を投げ出される。あなたが失われることを望まれないから。そこまでして与えられた愛をあなたはどう受け取り、生きるだろうか。

 

さて、↑はイエス様が十字架に架かられる直前の出来事。昨日見た最後の晩餐の後、イエス様はゲッセマネの園で祈られていた。そして、祈り終えたところで、いよいよ宗教指導者たちが、裏切り者のユダに連れられ、ローマ兵とともにイエス様を捕まえに来られた。宗教指導者たちは救い主の誕生を待ち望んでいたはず。しかし、イエス様によって自分たちの地位を危ぶまれることを恐れ、イエス様を殺すことを選んだ。まあそもそも、イエス様は私たちの罪を背負い十字架にかかり死なれるために来られたのですが。

 

イエス様は、逮捕を逃れることなど、神の子ですからしようと思えばできます。↑の直前、ゲッセマネの園で祈られていたときは、苦悶し、血の汗を流しながら、願わくばこの杯を取り除いてください、しかし御心のままに、と祈られた。そして立ち上がられ、捕まるとわかっていながら逃れることなく↑でイエス様を捕まえに来た人たちに面と向かいます。

 

ちなみにほかの福音書を読む限り、ユダが接吻をもってイエス様がどの人か知らせた、とあります。真っ暗闇の森の中、をイメージしたらわかるでしょう。どの人かわかるように合図した、そして、イエス様は、彼らに向かって、誰を探すのか?と聞きます。そこで、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えます。するとイエス様は、「それはわたしです」と答え、彼らはおののき、地に倒れ落ちました。

 

彼らもびっくりですよね。言い逃れすることなく毅然と、それはわたしです、とこたえたのですから。イエス様も誰だそれは?と言い逃れすることなどしません。逃げようと思えば逃げられる。もしくは捕まえに来た人たちをけしからんと言って、打ち倒すこともしようと思えばできたはず。特にユダに至ってはこの裏切者、とできたはず。しかしそれをしなかった。

 

「それはわたしです」ということばは、昔いまし、今いまし、これからもい続ける方、とかつて神様がモーセに現れた時に自己紹介で使われたことばです。彼らはその神様の威光の前に立っていることができない。でも改めて、彼らに誰を探すのか?と尋ねた。イエス様は、逃げようと思えば逃げられる中、私たちを失わせないため、自ら捕まる道を選ばれた。命を懸けて彼らを、あなたを守ることを、救うことを選ばれたのです。

 

イエス様がしらを切れば救い主はだれだ?と彼らの、私たちの救いが失われる。イエス様は、なぜ私が彼らのため、裏切った彼らのために死ななければならないのだ、と言わず、剣でイエス様を守ろうとしたペテロをもいさめ、捕まった。それは一つは彼らを逃がすため、もう一つは「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」というイエス様のことばが実現するため、というよりもイエス様は約束を果たされたのです。

 

イエス様は、私たちが救い主を失い、命を失われることを良しとされなかった。だからこそ、命を懸けて、私たちを救うべく、あなたを見捨てることなく、身代わりにひかれていった。私たちが本来かかるべき十字架に。あなたを暗闇の森から逃がし、罪の、サタンの手からに男鹿市、身代わりにその盾となられ、死なれた。十字架で。そして3日目によみがえられ、このイエス様の命にあって私たちは救いの道が開かれたのです。

 

ユダも、悔い改めていれば…と思うところですが、彼はこのイエス様の招き、愛に立ち返ることはなかった。私たちはどうだろうか?イエス様の十字架、命がけの愛を無駄にしていないだろうか?私たちはこの新たな道に、イエス様の命がけの愛、しらを切らず、毅然と私だ、と答え、あなたを導かれたこの新しい命をどう生きるだろうか?逮捕されてイエス様は終わらず、十字架で死なれて終わらず、3日目によみがえられ、あなたをこの復活の恵みの道に今日導かれている。あなたは今日、どう応答するだろうか。