「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。『ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。』すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。『主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。』ナタンはダビデに言った。『あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。【わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。…」
Ⅱサムエル記12章1-7節
私たちはニュースなどを見ていると、どうしも他人事に見て、あいつはひどい、悪い、と裁く目で見る。でも果たしてそんなに私たちは完璧なのだろうか?罪は罪。でもその前に私たちは彼らに石を投げられるほど清廉潔白な人間なのだろうか。私たちはいつも神様に、それこそお医者さんに健康を見てもらうように、チェックしていただき、洗い聖めていただき、歩もう。
さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世で起こった大スキャンダルの後の話。このとき何があったのか。ダビデは王でありながら、戦争中でありながら戦闘の先頭に立たず、王宮で休み、ふと隣を見ると美しい女性、しかも自分の部下の妻バテシェバの水浴びを見、気に入り、王宮に招き入れ、不倫。そこで妊娠し、それをごまかすために、バテシェバの夫を呼び戻し、床を奥さんと共にしてごまかそうとするも、今すべきことは損な事ではない、仲間が必死に戦っているのに、と拒否し、諦めたダビデは、夫ウリヤを最前線に残して死ぬように仕向け、敵に殺させた。そして、悲しみの中にあるバテシェバを妻としてダビデは迎えるのでした。
週刊誌がこの時代にあったら大騒ぎだったでしょうね。そして他人事のように見て、ダビデを裁く。実はこの不倫・隠蔽殺人事件の話の分かち合いに入ってから、様々な反響をいただきました。その中で思わされたのは、ダビデは王、指導者、裁きは指導者から、と聖書で言われていますが、その責任はとても大きい。この先の将では国はクーデターが起こる。この時のショックで初動が遅れた可能性もありますが。
ただ、一つ気づかされたのは、このダビデは、私たちであり、私であり、あなたでもある、という事。他人事のようにこれを見て、ダビデは最低だ!これだから男は、とかいろんな意見をいただきました。でも、そもそも私たちはダビデは悪い!これだから旧約はダメなんだ、なんて言えるほど清廉潔白な人間?真人間?
それを言ったら何も言えなくなる?でも罪は罪、この後ダビデは、またバテシェバもそうですがとても苦しむ事になります。生まれた子供は病気ですぐになくなりますし、ダビデはこの罪の影響で骨が干からびる程に苦しんだ、と後に書き残しています。パウロは「罪から来る報酬は死です」と手紙に書いていますが、まさにその通り。霊的にも苦しむ、死んだような状態になる、それをダビデ自身体験します。
ただ、これは聖書の話、ダビデが悪い、ダビデの問題、で私たちは片づけてはいけないのです。預言者ナタンは、神様から導かれ、このダビデの罪を指摘するように言われ、向かいます。どれだけ悩んだ事でしょう。でも、ダビデは↑でナタンに例えで話された時にそれは自分が犯した罪だったという事を気づかなかった。
イエス様は、自分の大きな梁が目にあるのに、人の目にある塵にはよく気づき裁く、と仰られていますが、まさにそんな状態になりやすい。もちろん、ナタンのように、間違っているものは間違っている、と「悔い改め」に導く必要もあります。
でもそこからなんです。私たち自身、神様が何かを示された時、ナタンを通してダビデにその罪を示したときのように、それを他人事としてみるか、受け入れるか。ダビデは、そんなものは殺してしまえ、と言っていますが、そもそも私たちはどうして誰かを裁く権利があるだろう?ダビデの罪はダビデの罪。でも、私たち自身が、じゃあダビデの罪以外の面で罪はないのだろうか?
私たちはある意味で誰かを責め、ある意味で物理的ではなくとも殺す、ということはできる。イエス様も心の中で憎めばもうそれは殺しているのと同じ、とおっしゃられている。ナタンはただ裁きに来た?ダメなことはダメ、で終わり?そうじゃない、もしそれだけなら神様は、ダビデを討つこともできる。この後、ダビデとバテシェバの子が死ぬように。でも神様は、ナタンを通してダビデを悔い改めに、神様の道に立ち返らせたかったのではないか。
このまま神様から離れていっては、本当にダビデ自身が霊的に死んでいってしまう。その前に、神様に立ち返るように、そのために神様はナタンをダビデの元に遣わしたのではないか。罪に気付かなければ人は立ち返る事は出来ない。自分が道から外れていると知らずにどうして本来行くべき道にもどることができるだろう。神様は私たちを命の道に導きたいのです。人を責めるのは簡単、誰でもできる、でも私たちは、責めて終わりではなく、神様の、いのちの道に悔い改め立ち返る、ないし導く必要があるのではないでしょうか。
そもそも私たちは忘れている。私たちは御子イエス様を十字架にかけ殺した、その張本人なんだ、という事を。ウリヤの事件を酷い、と思うでしょう?でも私たちは、私たちの罪の身代わりとしてイエス様が犠牲になられ、身代わりとなられ、十字架で死なれた。その命を受けたものであるという事を忘れてはいないだろうか?本来、神様から、そんなものは殺してしまえ、と言われてもおかしくないのに、神様はむしろ御子イエス様に私たちの罪を背負わせ十字架で身代わりに罰してくださった。
私たちは自分の罪、神様から離れて神様を神様とせず、気づかない間に罪を犯し、歩んでいることを知らなければ、そしてその罪がイエス様の命にあって赦された(もちろん受け入れればの話ですが)この恵みの大きさを理解する事は出来ない。自分が罪人であったことを知って初めて、いかに神様の愛が素晴らしく大きなものであるかを理解する事は出来ない。
私も、この大スキャンダルを、どこかダビデを責めて終わってみていたけど、それは「私」なんだ、という事に目をつぶっていた。私は確かに、ウリヤを殺していない。でも私はこの罪ゆえに御子イエス様の命を十字架にかけた。
でも、それでも、私たちを悔い改めに導くために、神様は御子イエス様を遣わし、身代わりにすることを選んだ。放っておいて、そのまま死んでもいい、と考えず、あなたを取り戻すために、救いの、福音のメッセンジャーとして御子イエス様を遣わしてくださったのです。
私たちは神様との関係を宗教や他人事としてとらえてはいけない。神様はリアルにあなたを愛し、あなたに命をもたらすため、罪から、サタンの手から救い出すために御子イエス様の命さえ惜しまず与えるほどに愛される方。その命を持ってまでいただいた最大の恵みを今日覚えよう。他人事のように見るのではなく、自分の内に神様から離れ、傷ついた、傷つけた部分がないか、神様から離れ、御心から離れていないか。いつも祈り聞きながら、洗い聖めていただき、神様の御心のままに造り変えてください、と立ち返り祈ろうではありませんか。私たちは決して偉い王、ダビデではない。この神様の前に遜り、神様の下さる恵みによって生きよう。
