「…さて、アハズヤはサマリヤにある彼の屋上の部屋の欄干から落ちて病気になった。彼は使者たちを遣わし、『行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病気が直るかどうか、伺いを立てなさい』と命じた。そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。『さあ、上って行って、サマリヤの王の使者たちに会い、彼らに言え。【あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、主はこう仰せられる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。】』それで、エリヤは出て行った。…彼ら(使者たち)は答えた。『ひとりの人が私たちに会いに上って来て、こう言いました。【あなたがたを遣わした王のところに帰って行き、彼に告げなさい。主はこう仰せられる。あなたが人をやって、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。】』アハズヤは彼らに尋ねた。『あなたがたに会いに上って来て、そんなことをあなたがたに告げた者は、どんな様子をしていたか。』彼らが、『毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした』と答えると、アハズヤは、『それはティシュベ人エリヤだ』と言った。そこで、アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。…王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。『神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。ご承知のように、天から火が下って来て、先のふたりの五十人隊の長と、彼らの部下五十人ずつとを、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちはお助けください。』主の使いがエリヤに、『彼といっしょに降りて行け。彼を恐れてはならない』と言ったので、エリヤは立って、彼といっしょに王のところに下って行き、王に言った。『主はこう仰せられる。【あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てにやったのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは、上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。】』王はエリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。…」
Ⅱ列王記1章1-18節
私たちはあきらめない。何に?これを間違えると自分で頑張って頑張ってで疲れ果てる。無理して頑張るのではなく、神様をあきらめない。神様はあなたのうちに御心を現そうとその御目を向けておられるから。私たち自身、神様に帰ろう。神様の御心を待ち望もう。
さて、↑は紀元前北イスラエル王国での話。↑の直前、当時国を「支配していた」アハブ王はアラムという強国に討たれ、討ち死に。そのあと王になったアハブの息子アハズヤに起こった出来事です。
当時の国勢は、父アハブと母イゼベルの悪政によって最悪の状態にあった。父たちは豊穣と称しては淫行を強要し、子供を火にくべ、国民から搾取するためには殺してでも実行する、などもう真っ暗。しかもアラムに負け、その脅威にさらされ、さらに強国モアブにまで囲まれてしまった。
そのような状況で王となったアハズヤ。この危機的状況にどうするか?それが問われていた。アハブを憐れまれていた神様をアハズヤは見ていた。今こそ神様に逆らうのではなく、神など役に立たない、と反発するのではなく、神様に立ち返る機会だった。だって↑のような悪政を行っていたアハブにさえ神様は何度となく救いの手を伸ばしていた、現実に働く神様であること、神様に立ち向かう敵をも討ってくださっていたことを知っていたから。神様にゆだねる時、信頼する時、敵は何もできない、立ちおおせないことを見てきたはず。
しかし、彼はそんな神などいらない、と存在もしない偽の神により頼んだ。私たちを神様は養ってくださるのに、その神様から離れて私たちは生きる事などできない。祇園精舎の鐘の声じゃないですけど、猛きものはついには滅びぬ、堕ちるのです。神様により頼むならとこしえに立たせていただける、神様が支え、その御心を成してくださるから。でも、神様により頼まなければ、土台がない、魂の栄養はなくなり、ついには滅びる。健康だって神様から与えられるんです。だからこそ私たちは神様に信頼し歩みたい。
さて、そんなアハズヤはなんとか助かりたい、と自分の信じる神にゆだねに行きます。しかし神様は、アハズヤにも憐れみを示された。エリヤと出会い神様に立ち返るチャンスを。神様は滅ぼそうと思えば一発で滅ぼせる方、でも遣わされたということは悔い改めるチャンスでもあった。
そんな中でアハズヤの使者にエリヤを通して神様は「エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか」と語られましたが、あなたが伺いを立てる、赦しを、癒しを求めるのは、神様が何もしないから?神様はあなたに何もできないのか?我に帰れ、そう訴えた。このままではあなたをバアル・ゼブルは生きてもいないし存在もしないんだから助けない、今あなたに伸ばされた手を取れ、そう訴えたのです。
これを聞いたアハズヤは、父アハブにかかわっていたエリヤだとわかり、彼のもとに使者を遣わしますが、彼らは降りて来い、とエリヤに高ぶり、かえって討たれてしまった。でも神様は「彼自身」が神様に立ち返りへりくだることを待っていたのです。神様は癒すもの、聖書では67回かな?神様は癒すものである、と宣言されています。神様は、彼らが私たちが帰ることを待っていた。しかし彼は最後まで悔い改めず、最後は悲しみの内に死にゆくのでした。
神様はイザヤという人を通してこんな預言をされました。「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」。
これは、アハズヤのように神様に徹底的に逆らっていた王たちの時代に語られたものです。でも神様は彼らが神様のいのちを失っていくのを放置できず、やがてイエス様を遣わす、と約束された。イエス様が私たちの罪を身代りに背負い、私たちが支払うべき罪の代価・死(罪とは神様から離れ、神様を神様としない歩み、一言でいうと)を身代りに背負われ、十字架にかかられ死なれた。しかし、3日目によみがえられ神様と私たちの和解の道を示された。イエス様がすでにその罪の代価を支払ってくださったから。
私たちがこのイエス様に、アハズヤのように神は何もしない、と離れ去るのではなく、イエス様の十字架の前に高ぶるのではなくへりくだり悔い改める時、あなたの罪は、あなたの病は、あなたの傷は癒される。この預言が、イエス様のいのちにあってあなたに成就する。神様のいのちによって、御心によって、あなたは建て直され、癒される。もはやあなたをとらえるものは何もない。
神様何もできない神様ではなく、あなたを癒し、また建て直そうと、アハズヤにさえ、あなたにさえ、今日その御手を伸ばされる。あなたがこのまま世に、罪に傷つけられ、ついに滅びゆく前に、あなたが命を得るために、まず御子イエス様のいのちを差し出してまで、その愛を差し出された。救いを、命を差し出された。
今日、神様をあきらめてはいけない。神様はあなたを見捨てずあきらめずイエス様のいのちを差し出してまであなたを愛する事をあきらめない、やめなかった。私たちも神様に立ち返るのをやめず、神様の御心を待ち望もう。復活のイエス様が今、あなたと共にあり、あなたと一緒に建て直してくださっているのだから。
