ーラクダが針の穴を通る以上に難しい事をされたイエス様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを【尊い】と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。【殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。】』すると、その人はイエスに言った。『先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。』イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。『あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。イエスは、見回して、弟子たちに言われた。『裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。』弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。『子たちよ。{富にたよる者が}神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。『それでは、だれが救われることができるのだろうか。』イエスは、彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。』」

マルコによる福音書10章17-27節

 

私たちは罪ゆえに神様の愛を本来受ける事は赦されない。でもそのあり得ないことを取り払うために、ラクダが針の穴を通る以上に困難な事をされる事を選ばれた。あなたのためにいのちを投げ出す事を。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が人となってお生まれになって(もともと天地創造のはるか昔より存在されていたわけですが)生きられ、その愛を余すことなく注がれていた中である日の出来事。ある金持ちの男性がイエス様の元に駆け寄り、「永遠のいのちを得るにはどうしたらいいか?」と尋ねてくるのでした。

 

まあこの話は古今東西多くの人が求めて来たことでしょう。ただ、↑に出てくる青年も、古今東西求めて来た人たちも、彼らが求めて来たことは「自分の繁栄が永遠に続く事」。権力だったり、富だったり、好きなように生きたり…それをずっと楽しみたい、それが願い。イエス様はその彼の本音を知っていた。

 

イエス様は別に彼をはねのけたかったわけではない。金持ちが救われるのが難しいよね~といって見捨てたいわけではない。別にお金を持つ事が間違っているわけではない。ただ、私たちは何を求める事が大事なのか。それは、彼もそうですが、私たちが神様の御心で、神様ご自身のいのちが富んでいる事、神様の愛で満ち溢れる事、それが大事なのです。神様が、私たちを形造り、生かし、また色んな意味で富ませてくださる。まず求めるところは、神様ご自身を私たちが求める事に他ならないのです。

 

↑でイエス様は戒め云々の話をしていますが、ようするにそれは、神様を愛し、隣人を愛する事。でも、神様を求めず形だけ実行して、宗教行為を行っても、そこに神様不在では何も富まない。しかし神様の御心が働かれる事、神様のご意思、あなたへの最高の計画が溢れる時、どんな富も、金銭も、名誉も、権力も、力も、これに勝ることはできないのです。あなたの不安も恐れも、欠けも埋めることができるのは、神様の他、何ものも存在しないのです。

 

私たちは神様によって造られました。お母さんの胎の中にいる時もずっと神様はその中であなたを組み立て、また守ってこられた。でも、神様は私たち人間に特別なものをくださった。ただ「道具」を作るのとはわけが違う。それは、私たちを神様が生かすという意思、私たちと神様の交流の元、「神様の息吹」を吹き込まれた。これによって、私たちは本当の意味で生きた者となるのです。私たちを神様は、造られ、我が子を生かそう、生きた者としよう、と養われ続けるのです。

 

私たちが神様は何もしない、あれやこれやで満たされようと思っても、神様のその愛に、御力に勝るものはない。むしろ愛と思っているけど、神様ご自身を私たちが疑い神様から離れてどうして、本当の意味で富んだもの、いのちある者となる事ができるだろう?というよりもこの神様があなたを富ませよう、いのちある者としてくださっている事を忘れてはいないだろうか?

 

イエス様は、この青年とのやり取りの直後、このようにおっしゃられた。「子たちよ。富にたよる者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。もう、想像しても分かりますよね。はい、らくだが針の穴を通るなんて無理です。

 

でもだからと言って、彼らをイエス様は拒否した、否定したわけではないのです。不可能だからこそ、それを可能とするために、神様の前に富まない、神様を拒否し、自分の求める色んな意味の富でいっぱいにしている私たちが救われる事などできない。だからこそ、その不可能を可能にするために、最もありえない話、御子イエス様が、神であられるのに人となって来られた。この罪に溢れた世界に、どんなに裏切られるとわかってもそれでも、見捨てることなく多くの人を癒し、その道を示し、励まし、慰め…

 

そしてさらに究極にその愛を現された。罪のないイエス様が私たちが罪赦され、天の御国に入るため、永遠のいのち、永遠の神様との和解のうちに生きるため、私たちの罪の代価を、刑罰をイエス様は身代わりに負ってくださった。十字架で私たちの身代わりに罰せられ死なれた。神の御子が。最もありえない困難な話のところを、それを実行されたのです。そしてさらに人にはあり得ない、死にて葬られた人が3日目によみがえった、復活され、これによって私たちの救いを示されたのです。私たちの魂はこれによって回復し、神様と和解する事を赦されたのです。いや、神様ご自身がその愛をまず示されて。

 

このいのちがけの愛を、救いを受け取り永遠のいのち、神様との永遠の交流に生きるか否か、そのイエス様のいのちにあって富んだものになるか否かは後はあなたの決断なのです。あなたが罪を悔い改め、神様に立ち返るなら、このあり得ない神様の恵みがあなたを覆い、生かし、イエス様があなたの内に住まわれ、その愛、御心、御力をあなたの内に現し富んだものとしてくださる。

 

私たちは針の穴を通る事などできない。しかし程に遜り、ありえない十字架にそのいのちを投げ出し遜られたイエス様を通して、私たちはこのいのちを得る。最高のいのちを得る。何も難しい話ではない、でも難しい話に私たちはしないで、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋にこの方を求め続けよう。あなたを生かしたいと、御子イエス様のいのちを身代りにするほどにあなたを愛されている神様が、今日、あなたのために最高の愛、御心を与えたいと待っておられる。