「ネルはキシュを生み、キシュはサウルを生み、サウルはヨナタン、マルキ・シュア、アビナダブ、エシュバアルを生んだ。ヨナタンの子はメリブ・バアル。メリブ・バアルはミカを生んだ。」
Ⅰ歴代誌8章33-34節
神様の私たちへの願いは、私たちが幸せになる事。自力で、というよりも、神様が私たちを幸せにしたい。そういう計画を一人一人に持っている。中身はみんなバラバラ。でも、あなたにはあなたへの計画を持っている。
さて、↑の名前だらけの箇所。これはかつてイスラエルの民がバビロン捕囚から解放され、もう一度自分たちは何者なのかを思いだそう、神様の恵みを思い出そう、とエズラというイスラエル人の学者が書いた歴代誌という書巻の一部。↑はその中で、イスラエルが王性を取った時の最初の王サウルの家系について紹介されています。
サウルの出身部族は、ベニヤミン族と言って小さな部族でした。それだけではなく、王制を敷く前、かなりの問題をやらかして、一族が追放されてもおかしくないところを神様の憐みによって残された部族でした。昔の日本なら、御家取り潰し状態になってもおかしくなかった。それを神様は憐れまれたんです。今これを書きながらそのことを思い出す時に、やっぱり神様の憐み深さ、忍耐深さはすごいな、と思いますね。もう、これだけでエズラがあえて信仰深かったダビデ王から書き始めるのではなく、サウルから書き始めたいとも見えてきますね。
と、話は戻して、そんな中、イスラエルの国民が王政をのぞみ始め、その時神様は何と、そんな追放寸前だった、しかも小さな部族のベニヤミン族から王を選ばれた。これ、本当にびっくりな話です。例えばその戦いで功績を挙げた部族から選ぶ、とかなら分かりますよ?しかし、それでも彼らを憐れまれただけではなく用いようとされていた、なんという神様。
そんなサウルはとても神様に感謝し、自分の子どもたちに名前を付けて行きました。親は子どもへの思いを、願いをその名前に込める事が多いですが、イスラエルは特に。名は体を現すがごとく、そのまま。その名前は自分の告白になる。
まず、彼は長男にヨナタン(おそらく王になる前でしょうが)=神様の賜物と名付けました。神様が私に素晴らしい子ども・賜物を賜った、と告白しました。彼の名前を呼ぶごとに、神様がいかに素晴らしい物を賜る方なのかを思い出したことでしょう。そして、次男には、マルキ・シュア=主なる王は救い、と名付けました。神様こそ真の王、私の主人である、この王が必ず救ってくださる、と。一方で自分が王となった後もしばらくは、本当の王は私ではなく、神様だ、と自覚していたことでしょう。最初の内は神様に従いながらがんばってました。
しかし、残念ながら3男になってくると少し変わってきます。3男にはアビナダブと名付け、その意味は「わが父は高貴である」。我が父というのは、子から見たらサウルのこと。私をほめたたえよ、神など見なくていい、私はこんなに優れた王なんだぞ!と高慢な態度になってきました。実際、彼の王としての働きも高慢になり始め、自分より優れた部下(ダビデ)が現れ、民がサウルは千を討ち、ダビデは万を討ったというと嫉妬する。私は王だぞ!と。また神様より自分の思いを、民からの称賛を求めて行動する。神様が王だったはずが気がついたら自分が王、いや神となっていた。
そしてついには、自分を王と認めない神様を退け、4男にはエシュバアル=バアルこそ神、と自分をよいしょしてくれる民の信じる存在もしない神を神としてしまったのでした。こっちのほうがわたしの言う事を聞くし、と。
ちなみに、長男のヨナタンは、自分の子どもに、メリブ・バアル=バアルに反対する者と名付けました。バアル、よいしょする、自分の都合通りに操れる偽神ではなく、まことの神様を信じ信頼し歩むようにと訴えるのでした。その子の名前を呼びながら。彼は最後まで神様に従い通しました。
まあこう見てみると、本当にもったいないな、と思うわけです。まがりなりにも、神様が彼を王として立てたんですよ?しかも、やらかして御家取り潰し状態になりかねない中、神様の憐みによって救い出されてイスラエルに繋げられていた、その上さらに王として召し出された、そんな神様の御手の中にあったにもかかわらず、彼はそれを軽視してしまった。本当にもったいない。天地万物を造られ、もうどん底のどん底にまで陥っていた、そんな一族を引き上げ、王とする、そこまで考えてくださっている、その御目を注がれ、初期のころは本当に多くの勝利を収めさせてくださっていたのに、本当に、本当にもったいない。
最初にも書きましたが、神様の私たちへの願いは、私たちが幸せになる事。自力で、というよりも、神様が私たちを幸せにしたい。それは神様の目から見たら相当な事を彼らはやらかしたんです(ちょっとここに書くには気が引けるような事も)。それでも、それでも憐れまれたのは、彼らが悔い改めて、いのちを得る、幸せを得てほしい、そう願っているからではないでしょうか。だって彼らだって神様が造られた大切な存在なのですから。
神様は私たちを愛するがゆえに私たちの幸せを願う。それゆえに神様は計画を一人一人に持っている。中身はみんなバラバラ。でも、彼らには・あなたにはあなたへの計画を持っておられるのです。しかし彼が望んでいたのは、自分にとって自分の目から欲しい物を与えられるのが幸せと考え神様を、↑の名前のように段々切り捨てて行った。ないがしろにしていった。本当にもったいない。
私たちは、私は、あなたはどうだろう?あなたも神様が大切に造られ愛されている存在。この神様によって生かされている。にもかかわらず私たちは神様をサウルのような視点で見ていないだろうか?「扱おう」といていないだろうか?私たちは忘れてはいけないのは、そんな小さな、しかも神様を捨て、操り人形的にしか考えない私たちをそれでも憐れまれ、神様の家族から引きはがされていた私たちを憐れまれ、引き上げるために、神の御子たるイエス様をこの罪の身代わりに十字架に架けて死なせてくださったのです。御子イエス様のいのちという代価によって私たちは買い戻され、これを信じ受け入れる時私たちは神様と和解を果たし、神様の家族に、子に加えていただけるのです。加えていただけたのです。しかも、王の王としてあなたの内に住まわれあなたをすべ治め導いてくださる。復活の主があなたの内に住まわれ。
そこまでされたのはなぜ?あなたの幸せを願うからです。あなたの幸せを願い、滅びの道から救いへと引き上げるために、この救いの計画を実行された。これがあなたのために用意された最大の計画です。あなたを幸せにするため、あなたを滅びから救いへと引き上げるため。これが神様の愛、計画です。御子イエス様を身代りに死なせてあなたを買い戻す、あなたと和解を果たし、あなたの内に最大の幸せを現すために。
でも最後選ぶのはあなたです。サウルも神様の憐みを受けていた、でもその神様のご計画の内を歩むか、その救いをいただくかどうかは本人の決断次第。あなたの決断次第なのです。あなたは御子イエス様のいのちによって買い戻された存在。あなたはこの素晴らしい神様の愛にそっぽを向いてもったいない歩みをしてませんか?イエス様の十字架を無駄・無意味なものにしてませんか?私たちはこの神様の一方的な憐みによって示された愛を、幸せの計画を受け取りましょう。そしてこの神様により頼み歩もう。神様のあなたの内に現そうとされている御心、ご計画に期待して。
