ーそれでもー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」

ルツ記11-6

 

神様の願いは、願わくばすべての人が救われてほしい。だから、ご自分の御子イエス様を、良い人だけのために送られたのではなく、罪人のところに、私たちのところに送られ、その救いを示された。その御手は伸ばされていた。この事を忘れてはいけない。

 

さて、↑の話はイスラエル王国が建国される前の時代の話。エジプトの奴隷状態からイスラエルの地に帰って来た民たちは神様から与えられた地で生きていました。しかし神様の恵みを忘れ好き勝手に生きていた。しかしそれでも神様は彼らを見捨てず、彼らが悔い改めた時にはその救いの御手を指し伸ばされていたのでした。

 

そんな時代の中、ある時イスラエルの地に飢饉があり、ナオミさんとエリメレクさん、それに2人の息子はモアブというところに避難しました。

ところが、実はこのモアブという地は問題がありまして、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトから帰還する途中、モアブの地を横切る北行きの通行許可を求めたところ、モアブの人々は、イスラエルの親族でありながら、断固として通行を拒否し、彼らの王、バラクは、イスラエルを呪うために、バラムという預言者を呼び出しました。それゆえに神様も、モアブ人にはモーセをとおして厳しい裁き、10代目になっても決して神様の会衆に加われない、生涯いつまでも彼らの繁栄や幸福を求めてはならない、という裁きを宣告されたほど。

 

それだけではない、彼らの信じていた宗教、バアル宗教は、焼きつくすいけにえとして子供たちを犠牲に捧げることもありました。彼らの神と呼ばれるケモシュが民に怒ると、どんな犠牲を払ってでも沈めなければ、不幸はやむことがない、と脅し、子どもを人身供養とする恐ろしい国。

 

そんな異文化の世界に行ったナオミさんたちは相当苦労した事でしょう。ある人たちは、そんな神様の嫌う国に行った彼らの自己責任、という。でもそうだろうか?実はこのナオミさんの信仰を通して、その神様から排除宣言を受けていた民へ神様の愛が届起き、救いを受け、なんとその民の子孫がイスラエル王に、また救い主の系図に加わっていくんですよ?

 

ナオミさんはこの地にあってさらに主人を失い、子供たちまでも失った。イスラエルでは飢饉があり、このモアブ後にあっても不幸、神様は私を見捨てたのだろうか?と何度思いたくなった事だろう。しかしナオミさんは神様を一度たりとも呪うことはなかった。生涯を通していつでも、神様により頼んだ。

 

息子も旦那も死んだ今、モアブなんて神様に排除された民のところにいたって仕方ない、と彼らを捨てることなく、それでもなお絶望することなく、なお神様に祈りより頼み、神様のその救いを待ち望んだのでした。実は続きの箇所ではその彼女の信仰ゆえに、嫁さんたちはこの神様を求めたい、この神様と歩みたい、私の神様としてお招きしたい、という告白に至らせたのですが、その話はまたいつか。

 

だからこそ、イスラエルを神様が顧みられたと話を聞くと、彼女はすぐに神様の元に駆け寄ったのです。彼女がもし自分を不幸に貶める神などに頼ったって何の意味があるんだ?と思うなら帰る事はなかったでしょう。信じたって何にも意味がない、と。彼女は神様は「主」、全能者である、と最後に告白した。全能の神様が、顧みて下さっているんだ、あの異文化でどうにもならない中にあっても共にいて守ってくださり「続けた」神様が顧み、招いてくださっているというなら、私は行こう、そう決断したのでした。

 

正直、当時のイスラエルは滅茶苦茶。神様を使い捨ての道具のように見たり、自分の都合に応える召使的神にしか見ていなかった。まあ、これ、私たちもよく陥る話で他人ごとではないのですが。でも神様はそんな彼らをも顧みられたのです。また、モアブの地に避難しているナオミを助け続けていただけではなく、その地にあっても神様は救いのメッセージを届けられたのでした。なぜ?神様にとっては彼らは、私たちは大切な子ども。愛する子、だから見捨てるに見捨てられないのです。だからいつでもその御手を伸ばされている。私たちが気づかないだけで、伸ばされ続けているのです。その御目は注がれているのです。後はそれに気づくかどうか、その手を取るかどうかの話なのです。

 

ナオミはモアブの地にあってその確信の元、主により頼み、どんなに文化が違えども主が必ず共にいてくださる、旦那が死のうとも息子が死のうとも主が私と共にいてくれるから、絶望に見えてもそれでもより頼もう、とより頼み続けたのです。私の神様は全能者だから、と。全能者というのは母の乳房、という意味があり、そこには子供が生きるに必要なすべてがあるように、彼女のために神様はいつでも必要な物を与えて下さる、お母さんの心音を聞くようにその御側にいる事を知っていたのでした。

 

話しがあっちこっちしましたが、神様の御目は私たちに注がれている。受けるに値しない、当時のイスラエルの民の神様への目と何にも変わらない私たちにもその御目は注がれている。その究極の形として、顧みられているというその愛の具体的な形として救いを、神の御子たるイエス様を私たちのところに遣わされた。人として。そして私たちのすべての重荷を背負われ、また私たちの具体的な必要に答えられ、ベツレヘム=パンの家となられた、いのちのパン、救いの家、私たちが駆け込むべき、救いを求めるべき救い主となられたのでした。ここにいのちのパンがあるんだ、と。モアブの地や混沌としたイスラエルの地にその恵みが注がれたように、罪人の間に来られ、住まわれ、十字架を建てられ、私たちの罪の身代わりとなって罰せられ死なれたことによって、私たちに本当の命の糧、パン、罪の赦しと神様との和解を与えて下さったのです。ここに生きよ、と。ここに全能者の御手があるんだ、ここに帰れ、と。そして今や、ベツレヘムやイスラエルだけではない、モアブも含め全世界に渡ってこの救いのメッセージ、十字架が建てられたのです。

 

それ程にあなたを愛された、あなたの身代わりとして罰せられてもいい、と何の罪もないイエス様が身代わりに十字架で罰せられ、死なれるほどにあなたを愛された、その神様があなたに今日も御目を注がれ、その御手を伸ばされている。あなたが霊的なモアブという地にあっても、夫や息子を亡くし絶望下にあったナオミのような状況にあっても。周りがいかにあなたと対立するような状況下であっても、全能者なる神様がここにいるから、とその手を伸ばされ続けている。これらの状況は主の前に何もすることはできず打ち勝つ事はできない。

 

私たちはこの主の元に帰り、このパンの家、真のいのちの中歩もう。ナオミのように、神様はあなたが今日も帰って来ることを、ここに生きることを待っている。そこには、この先の箇所にも出てきますが、驚くべき神様のあなたへの計画が、御子イエス様のいのちをとしてまでも買い戻された神様の愛のご計画が、恵みが、養いが待っているから。ただ期待し全能者なる神様の元に駆け込もうではありませんか。御子イエス様にあって供えられたこの大いなる恵みを受けに。