ー平安と真実を豊かにー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。」

エレミヤ書336

 

神様は私たちが願わくば神様の元に帰って来ることを願っている。神様の私たちへの愛は尽きない…神様は罰して見捨てることもできる。でも神様はそうしたくはない…

 

このエレミヤさんという人に神様が上のことばを語られたとき、イスラエルの民は神様から散々離れて行った。どれだけ神様から愛され、守られても、自分たちが神であることをのぞみ、自分の好き勝手に生きていた。かつてエジプトで奴隷であった時、何か良いことをしたわけでもない、しかし彼らを愛する神様は彼らの叫びを見捨てられず救いだし、彼らに最良の土地へと導かれ、また王国さえ建てられ、彼らを祝福されたにもかかわらず、そんな神様はもういらない、と。そしてもっと自分たちを豊かにする者を求めて行き笠間から離れて行ってしまった。

 

もう、神様から彼らは見捨てられてもおかしくなかった。そうして彼らは捕囚に向かって行くのでした。北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに。当時最強と言われた国家です。もうもはや絶望しかありませんでした。

 

神様ももう、自分勝手に生きたいというんだからいい、と見放す事も出来た、でもしなかった。そこで神様は上のように約束されたのでした。捕囚先にあっても事実神様は助け手を各地に与え、彼らを霊肉共に助け護られた。そして神様が直接王に働きかけ、彼らを解放させ、捕囚から70年、彼らは自分たちの国に帰っていくのでした。まさにその町を癒して直し、平安と真実を尽くされたのです。あ、そういえば、ローマ帝国によって壊滅されても1900年近く経って後にイスラエルを再びその地に連れ戻されましたね。神様の見捨てないその真実さはまさに変わっていなかったのです。

 

何だ、イスラエルの話なら私には関係ないや、と思わないでくださいね。まあ上の約束は第1義的には確かにイスラエルの民への約束なのですが、この愛は私たちに対しても向けられているのです。私たちも神様から離れてしまった。神様難解なく立って生きていける、もっと私を喜びで満たすものを探し、それを神とする、そんな私たち。神様に見放されてもおかしくはなかった。

 

でも神様はそうされなかった。同じように救いの手を差し伸べられた。なんと神の御子たるイエス様を私たちに与えてくださったのです。なんと神であられるのに人となって来られ、私たちに尽きぬ愛を注がれた。一人ひとりを訪ねて行かれ、なんと最後には裏切者たちがいる中にあっても、私たちという町を立て直すために、私たちの罪を身代りに背負い、身代りに罰せられ、死なれた。そして3日目によみがえらせることによって、失われてしまった、神様と本来共に生きる私たちという町、私たちと神様との関係、神様が治められる私たちの町を立て直されたのです。私たちの罪に汚れてしまい、死にゆくしかない、この死んだ関係を癒されるため、十字架に架かられた。そうして私たちを平安で満たし、なお真実を尽くされるために。そういえば3度否定し呪ってまでイエス様を否認したペテロをもイエス様は赦されましたね。お前は裏切ったから赦さない、とは言わず。

 

みなさん、神様の愛は深いんですよ?見捨てられた?とんでもない、むしろ神様を見捨てた私たちをなお神様は見捨てられず、こともあろうにひとりごなるイエス様を身代りに十字架に架けられ罰してまで、そのいのちの代価を身代りに支払ってまで、私たちを取り戻されたのです。その愛と真実を尽くされたのです。まだこの神様の愛は取り上げられていない。私たちが帰って来ることを今でも最後の審判、裁きを引き延ばしながら待っておられるのです。あなたが帰って来るなら、と。

 

私たちはこの愛に帰ろう。私たちは神様によって建てなおされた新しい町にイエス様を王として迎えよう。その時、あなたのうちには神様の平安と真実の愛が豊かに満ちるから。