ジョット晩年のフランチェスコ画、聖フランチェスコ伝 | フィレンツェ暮らしアレコレ

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こんにちは

今日も昨日同様最低気温-2の寒い朝でした。

さて、今回は、西洋絵画の父とも呼ばれるジョットの晩年の代表作の一つ、サンタクローチェ聖堂の、ヴァルディ家礼拝堂の聖フランチェスコの生涯を描いたフレスコ画を紹介させていただきます。


紙芝居を順番に並べたようなフレスコ画の連作は新約聖書、旧約聖書、聖母を始めとした聖人の生涯を表したものなどいろいろ有ります。

 物語を追う順番に決まりは無く画家や企画者が決めていたので、物語の予備知識がないと見方がわからなくなる場合があります。


バルディ家の礼拝堂の聖フランチェスコ伝の場合、聖フランチェスコの最も象徴的なエピソードである、聖痕拝受が、礼拝堂正面上部の壁面に単独で描かれています。

❺聖痕拝受(1224年9/14-15深夜から明朝、ラヴェルナでキリストと同じ所に傷が現れる)


そしてその他の6場面が礼拝堂の左右の壁面に描かれています。(現地の作品タイトルが描かれた掲示板の表示番号は、物語の順番を追ったものではありません。)みる順番は礼拝堂に向かって左上から右上、そのまま右一つ下(2段目)、左(2段目)そのまま左一つ下(下段)、右下段と物語が進み、聖痕拝受は5番目の場面に当たります。



❶財産の放棄(2006年、父親へ自分の身につけている贅沢な衣服を父親に返して世俗と決別)

❹アルルの修道院における出現(1224年頃?ヴェローナの聖アントニオがアルルの総会で説教中にその場にいない聖フランチェスコが現れた)

❻聖フランチェスコの死(1人の修道士が光り輝く聖人の魂が天に昇るのをみた)


❷会則の認可(1209年教皇イノケンティウス三世による)

❸スルタンの前での日の試練(1219年頃、信仰の証として燃える日の中に、イスラムの聖職者と共に入ろうとしたが、誰も応じなかった)


❼修道士アゴスティーノとアッシジの司教への出現(聖フランチェスコが亡くなった時、唖のアゴスティーノ修道士がお待ちください、私も一緒に参りますと言って亡くなり、アッシジの司祭は別れを告げる聖フランチェスコの姿を夢の中で見た)


天井はクロスボールトで4つに区切られた中にそれぞれメダリオンの中に徳を表す女神が描かれています。


礼拝堂正面のステンドグラスはヤコポ・ディ・カセンティーノ(1297-1349)によるもので、バルディ家の紋章ではなく、モレッリ家です。1244年のバルディ家の銀行破産で礼拝堂の所有がモレッリ家に移ったのかもしれません。

ステンドグラスのサイドに描かれている判別できる聖人は、左上聖ルイ(イタリアではトローザのルドヴィーコと呼ばれる)その下が聖キアーラ、その右がハンガリーの聖女エリザベート)聖ルイが列聖されたのが1317年なので、この壁画はそれ以降の時期で、描き方の特徴などから1320-1328とされています。

このフレスコ画は、バロック時代に完全に漆喰で塗りつぶされ、壁面に霊廟が設置されたりしたため、大きく欠けている部分があるのが残念ですが、勢いのある柔らかい手馴れた筆の動きが感じられるようにしっかり色が残っているのはフレスコ画技法ならではなのだと思います。

 

 そして髭を生やしていた聖フランチェスコなのですが、このフレスコ画の聖フランチェスコには髭がありません。

 その理由は、この絵が描かれた頃、髭を蓄えることは粗野なイメージが強く、フランチェスコ会内の当時の穏健派(多数派)は聖人の実際の姿より、一般受けしやすい姿に図象変更を図っていたのではないかとも考えられているそうです。

 たしかに、同じジョットが1290年代終わりに描いたとされるアッシジの聖フランチェスコ伝は髭があり、コッポ・ディ・マルコヴァルドの祭壇画にも髭が描かれています。

 1220年ごろから聖フランチェスコは大きくなった組織と本来自身が求めていた在り方とのギャップで、会の運営をメンバーに任せ、一線を退きました。そういう所も聖フランチェスコの人気が高い理由なのかなと思います。


伝統的にフレスコ画装飾が盛んなイタリアで、人気の高い聖人の聖フランチェスコはアッシジの聖フランチェスコ聖堂のジョットの初期の作品とされているものが最も有名です。そして、フィレンツェには今回ご紹介させていただいたジョットの作品の他に、フィレンツェ盛期ルネサンスに、ボッティチェッリと人気を競っていたドメニコ・ギルランダイオが1480年代に、サンタトリニタ教会のサッセッティ家の礼拝堂に描いたフィレンツェルネサンスを代表するフレスコ画も有名です。