終戦記念日 | なんとなくpepo

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北の国に暮らすうなぎ、健康オタク、最近はトレーニングと健康食に力を入れ、多趣味で元気なBBAを目指している。

今日は終戦記念日

もちろん私は戦後の生まれ

 

母は小樽にいたので空襲があって

そんな空襲の話も聞きましたがあまり悲惨な感じはせず

なぜかというと、空襲警報が鳴ったら学校から家に

帰れて勉強しなくてよくて、それがうれしかったと

でも、空襲警報が解除されるとまた学校に戻らなくてはならなかったと

残念そうに言っていました

どんだけ勉強したくないんだ?

竹やりの練習もしたし提灯行列もしたよ

当時は本当に勝つと思っていたし、敵が来たら

竹やりでやっつけられると思っていた

そんなのも楽しくやってたよ

あんまり悲惨じゃないでしょ

 

小樽から出兵する若い船乗りさんを父(私からしたらおじいちゃん)が

酒場で知り合って連れて来て、家でご馳走して泊まらせたりしたと

そして、一緒に寝てねぇ

今なら大問題だわ・・・と

 

父は、長沼の田舎で農家だったので食べる物には

苦労はしなかったそうで

でも、両親が早くに亡くなって叔父一家で育っていたので

特攻隊に志願して、数日で訓練場に行くところで

終戦になったそうです

後、何か月か後だったら・・・

死に損なったんだって言ってましたが、行ってないので

そこまで深刻な感じはしませんでしたが・・・

私は生まれていなかったかもしれませんぞ

 

東京の大空襲とか沖縄戦とか

写真や文章でかわかりませんが、私たちの世代も

伝えていかなくてはなりませんね、平和を

今もどこかで戦いはあって、誰かが不安で泣いている

 

私は、冷戦時代も何も知らずに平和に暮らしていました

後から、その歴史を知るとボタン一つの駆け引き状態だったと言いますよね

 

息子たちは、徴兵制があっても断固拒否

兵役があっても断固拒否

志願兵?

今の日本で行く奴いる?って言ってました

息子を戦地に送るなんて・・・考えたくもありません

 

平和を祈ります

 

 

私の祖父母のアルバムから

戦争の初めの頃はこんな風に上りの旗を作ってお祝いして送り出したとか

福田は、母方の性で、祖母は料亭の幼女でお金持ちの子で

北海道で初めてレベルで車があったそうです

幼稚園の送迎はその車だったとか・・・

祖母はあまり戦争の話はしませんでした

こどもが女の子6人で、肩身が狭かったとだけ言ってました