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レンブラントさんはかなり波瀾万丈な生涯だったらしい

 
レンブラントさんはかなり波瀾万丈な生涯だったらしい。

ヨハン・ヤコブ・バッハ (J. J. Bach) の波瀾万丈な生涯の短い伝記

1.プロローグ

 まだ駆け出しの頃の、ヨハン・セバスティアン・バッハ(以下、セバスティアンと略す)の作品に;

『 カプリッチョ 《最愛の兄の旅立ちによせて》 』 BWV992

 という曲がある。

 旅立つ兄への別れにあたって作曲された送別の音楽である。



2.「最愛の兄」はだれであろうか?

 セバスティアンの次兄(本当は六男だが成人した兄弟では次兄)、

 ヨハン・ヤコブ・バッハ(Johann Jakob Bach 以下、ヤコブと略す)である。



 ヤコブは1682年に産まれで、セバスティアンの3歳年上。

 末の弟・セバスティアンが産まれた9年後、1694年母親が亡くなり、次の年には父親もあいついで亡くなってしまった。

 ヤコブは13歳の誕生日を迎えたばかり、セバスティアンは10歳の誕生日のおそそ1ヶ月前であった。



 孤児となってしまった二人の兄弟は、成人してオールドルフのオルガニストとなっていた長兄(本当は次男だが、長男は夭折)、ヨハン・クリストフ・バッハの元にあずけられることになった。

 後年、セバスティアンは『音楽家系バッハ一族の起源』という自分の家系図を作成している。バッハ家一族の結束力は非常に強く、家族の絆も強かったのであろう。ましてや、幼くして両親をあいついで亡くした兄弟どうしということで、特別仲が良かったのではないかと想像できる(残念なことに、当時のヤコブとセバスティアンの仲についてのエピソードは何も伝えられていないが)。

 だからこそ、セバスティアンはヤコブの旅立ちの時、作品を献げ、ヤコブのことを「最愛の兄」と呼んだのである。



3.ヤコブはどこに旅立つのであろうか?

 それは、バッハ一族の故郷であるチューリンゲン地方を離れ、遠くスウェーデンに旅立つのである。

(当時のドイツは大小様々な「国」に分立していて、「ドイツ」という国はまだ存在していなかった)



4.なぜスウェーデンなのか?

 ポーランドに滞在中であったスウェーデン国王・カール12世のオーボエ奏者として軍楽隊に入ることになったからだ。1704年に軍楽隊に入隊し、王とともに1706年にポーランドを離れたらしい。

 そのため、上記のセバスティアンの送別の音楽は、1704年あるいは1706年に作曲されたと推定されている。



5.なぜ、スウェーデン王がポーランドに滞在しているのか?

 この有名な軍人王・カール12世は15歳で即位した。その若さにつけいるように北方の大国スウェーデンに侵攻する隣国をことごとく破り、その中の一国・ポーランド王を廃位に追い込み、新しいポーランド王を擁立するため、カール12世はポーランドに滞在していたという。



 このときヤコブはカール12世と出会うことによって、彼の波瀾万丈の人生がスタートすることになるとは思いもよらなかったであろう。

 カール12世は、即位後、連戦連勝の破竹の勢いであった。

 しかし、1709年、対ロシアの「ポルタヴァの戦い」で全軍壊滅の大敗を喫し、多くのスウェーデンの軍人は投降、捕虜となったという(かの悪名高き・シベリア送りになったらしい)。



6.オスマン・トルコ帝国でのヤコブ

 カール12世はごく少数の近従とともに、ロシアの宿敵である大国・オスマン・トルコ帝国に逃れた。

 ヤコブはこの近従の中にあり、カール12世とともにオスマン・トルコ帝国で亡命の日々を送ることになった。

 ヤコブはオスマン・トルコ帝国のコンスタンチノープルで、フランス人のフラウト・トラベルソ奏者、ピエール・ガブリエリ・ビュファルダン(後年、ドレスデンの宮廷音楽家となり、セバスティアンとも交友があったらしい)に師事し、フラウト・トラベルソ奏者になったらしい。



7.ストックホルムの宮廷でのヤコブ

 ウィッキペディアにあるヤコブの短い伝記によると、王より先に1913年、ストックホルムのスウェーデンの宮廷に「戻り」、王の帰還を待ったらしい。


 1914年、カール12世は少数の部下とともにオスマン・トルコ帝国を離れ、2,000Kmを越える距離を、まさに不眠不休で騎馬を疾走させ数週間でスウェーデンまで帰国したという(本当にこんな無謀な旅が当時できたかかなり疑問に思うのであるが)。


 なぜ、ヤコブだけ先にオスマン・トルコ帝国を離れることができたのは分からない。もしかしてヤコブもこの命がけの大帰還をカール12世と共にしたのかもしれない。


 ヤコブは、この後もストックホルムの宮廷のフラウト・トラベルソ奏者として勤め、1922年に客死した。



8.エピローグ

 ヤコブはかように波瀾万丈の生涯を生きたのだが、生き別れになってしまった弟セバスティアンと再会することができたのであろうか?

 弟セバスティアンもたびたび転職し、居を変えているので、最愛の兄・ヤコブと音信不通となってしまったかもしれない。

 もし、再会することがなくても、ヤコブがストックホルムに居を構えた後は、当時オルガン演奏の大家となっていたセバスティアンの近況は伝え聞いていたのかもしれない。

 兄弟の音信が再開し、セバスティアンにヤコブの数奇な生涯が伝えられたのであろうか?

 これらのことについては、歴史書は黙して語らない。

(追記)ヤコブ兄さんとセバスティアンの間には手紙にやりとりはあったという。


 
《参考》
『Wikipedia』 「Johann Jacob Bach」の項
『ウィキペディア(Wikipedia)』 「カール12世 (スウェーデン王)」の項
『ウィキペディア(Wikipedia)』 「ポルタヴァの戦い」の項
『ウィキペディア(Wikipedia)』 「ピエール=ガブリエル・ビュファルダン」の項
『ウィキペディア(Wikipedia)』 「バッハ家」の項
『バッハ家系図 その1』 http://www.geocities.jp/konigsfamilien/hilfe/geschenk3000.html

〔私CD評〕 モンテヴェルディー作曲  《Favola in Musica 『オルフェオ』》 E



 クラウディオ・モンテヴェルディー(1567-1643)は、イタリアで活躍した音楽家。

 Favola in Musica、すなわち音楽劇、「オペラ」の最初期の作者の一人であり、いきなり歴史的な最高傑作を創ってしまったと、世に名高い(もちろん、ただの「一発屋」ではなく、当時の音楽を一変させるような数々の曲を創作した)。

 が、どうも筆者はモンテヴェルディーが苦手。どの曲、どの演奏を何度聴いてもどうもしっくり来ない。

 しかしながら、同時代の音楽は筆者の最も好むもの。

 同時代の音楽家を思いつくままに記すれば;

 ジョヴァンニ・ガブリエーリ(c.1554/1557–1612)
 ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー (c.1580–1651)
 アレッサンドロ・ピッチニーニ(1566–c.1638)
 ジローラモ・フレスコバルディ(1583–1643)

 などなど、

 まさに「世紀を超えて」輝き衰えぬ魅力を保ち続けるアポロンの愛するものたち、アポテオーズたち。

 さて、時として、あるきっかけに突然、大きい負のベクトルは、正のベクトルに方向を変え、その矢先を天に向け成長させることがある。

 まさに、Emmanuelle Haim指揮 Le Concert d'Astréeによる《Favola in Musica 『オルフェオ』》は筆者のモンテヴェルディー感を一変させるインパクトを大きな与えた演奏であった。

 2004 EMI RECORDS LTD/VIRGIN CLASSICS

《謝辞》

 今回のCDは、アルチーナさんが主催される『アルチーナのブログ』 


 を拝見して知りました。アルチーナさん、素晴らしいCDをご紹介いただき、ありがとうございました!

 また、アルチーナさんのことは、ヤフー・ブログ仲間のREIKOさんが企画されている、
「ヘンデルWeb祭り」の中の『ヘンデルをもっと楽しむ♪』↓(ウェブリブログ)


で知ることができました。素晴らしい出会いができたこと感謝いたします。