葛城襲津彦の祖先の武内宿祢(たけしうちのすくね)は、記紀では数百年生きたかのように書かれたが、それは作り話で史実では3世紀の実在人物であった。
武内宿祢
出雲旧家の伝承によると、2世紀の第一次物部東征の際に、磯城王朝の大彦と孝霊大君は、物部氏の勢力に押されヤマトの地を離れた。
しかし、別の王子のクニクルはヤマトに残り、孝元大君となった。
そして、物部氏出身のイカガシコメ姫を后に迎え、皇子・布都押之真(ふつおしのまこと)〔彦太忍信〕をもうけた。
布都押之真は、紀国造・宇豆彦(珍彦)の妹・山下影姫をめとった。
それで、生まれた息子が武内宿祢であった。
つまり、武内宿祢は磯城王朝の大君の孫であり、父・布都押真は物部氏の血を受けていた。
だから、物部王が与える尊称「宿祢」を持っていた。
母の紀国造家は、高倉下の子孫の家で、西出雲王家・郷戸(ごうど)家〔神門臣(かんどのおみ)家〕と海部家の血統であった。
つまり、武内宿祢は多くの有力豪族の血を持っていて、「名門中の名門」の人物であった。
和歌山市松原の彼の生誕地には「武内宿祢産湯の井戸」があり、武内神社も鎮座している。
武内宿祢産湯の井戸〔紀伊国名所図会〕
武内宿祢の本名は、武内大田根(おおたね)であった。
武内の「タケシ」とは「武力に優れた将軍」の意味であった。
また「ウチ」は、ヤマト国宇智郡にちなむと言われている。
宇智郡には、父・布都押之真を祀る宇智神社〔奈良県五條市〕が鎮座する。
第一次物部東征の勢力は、ヤマトのモモソ姫の勢力に押され、大半は日向・西都原に帰って行った。
武内大田根も、紀伊国から西都原に一緒に移住した。
西都原の物部ミマキ王は、宇佐神宮の豊玉姫を后に迎えた。
ミマキ王は、第二次物部東征の準備を始めたが、その矢先に九州に亡くなった。
ミマキ王は九州で一生を過ごし、ヤマトには一度も行ったことが無かった。
その后の豊玉姫が、『三国志』「魏書」で魏国に朝貢したいわゆるヤマタイ国のヒミコであった。
武内大田根は、豊玉姫〔ヒミコ〕の使者として、魏の領地・帯方郡に行った。
彼は『三国志』「魏書」に、「載斯鳥越(タシウチ)」と書かれている。
「タ」の字は、「戴(たい)」の字の写し間違いであると考えられる。
「ケ」の字は、省略された。
武内大田根は帯方郡から、銅鏡の製造者を連れて帰った。
そしてヤマトで、三角縁神獣鏡を大量に作らせた。
その銅鏡には、彼が魏国に行ったことを記念して、魏の年号〔景初三年〕が書かれた。
豊玉姫が亡くなった後、イクメが第二次物部東征の首領となった。
彼は、ミマキ王と先妻・アタツ姫の御子であった。
彼はヤマトへ東征した後、そこの出雲系豪族を武力で圧倒し、ヤマトで垂仁大君となった。
武内大田根は名門の生まれであったが、物部勢に重用されず、ヤマトの垂仁大君のもとから離れた。
将来は自分の子孫が出世し、彼らの上に立つことで復讐しようと心に誓った。
武内大田根は、因幡国の宇部神社の場所に住んだ。
そこに社が建てられ武内宿祢が祀られ、拝殿の前には京都御所と同じように右近の橘と左近の桜がある。
それは武内大田根の子孫から、仁徳王朝の大君たちが多く出たことを暗示している。
宇部神社〔鳥取市〕
彼は垂仁大君から暗殺されそうになり、その地から逃亡した。
その地には、服や沓を残し農民服で逃れたという話が伝えられている。
彼は出雲に逃れ、旧東出雲王家・富家にかくまわれた。
その地が、後に武内神社〔松江市八幡町〕になった。
そこの石灯篭には、出雲王家の竜鱗枠(りゅうりんわく)に「武」の字の神紋がある。
彼はその地で、富家の姫を奥方に迎えた。
生まれた子供は出雲で育ち、富家の親族となった。
旧出雲王国では、王家から奥方を迎えると王族と認められ、曲玉の首飾りをつけることが許された。
王族は苗字に「臣」の尊称をつけることができた。
だから、『私製出雲風土記』には、「臣」のついた豪族名が多く書かれている。
以後は物部氏の尊称「宿祢」は使わないとの交換条件で、武内大田根は臣家を名乗ることになった。
彼は出雲で亡くなり、雲南市加茂町の神原神社古墳に埋葬された。
その墓は、出雲人が誇りとする方墳であった。
そこからは、彼がヤマトで作らせた景初三年の年号入りの三角縁神獣鏡も出土した。
神原神社古墳〔鳥取県雲南市〕
その墓の上には、武内神社が建てられたと出雲の旧家で伝えられている。
その社は、後に神原神社と名が変わった。
もとの武内神社は、今は神原神社境内にあり、摂社となっている。
武内大田根が暗殺を逃れ、富家の姫との間に子をもうけたことは、日本史において大きな意味を持った出来事であった。
彼の子孫たちは、その後大活躍し歴史に名を残した。
彼の子孫の襲津彦は日向国に行き、日向髪長姫と結婚した。
日向襲津彦は息長姫を助け、二韓征服に貢献した。
日向からヤマトに拠点を移した襲津彦の子孫には、巨勢臣小柄(こせのおみおがら)や紀臣角(きのおみつの)、平群臣都久(へぐりのおみつく)、蘇我臣石河(そがのおみいしかわ)がいた。
巨勢臣小柄は、古瀬〔御所市〕に地盤を固めた。
巨勢氏からは、後に仁徳王朝の創始者が出ることになった。
これについては、仁徳大君と平群臣都久が同一人物だという説もある。
蘇我臣石河は、河内国の石川郡〔大阪府羽曳野市〕や安宿(あすかべ)郡〔大阪府柏原市、羽曳野市〕に地盤ができた。
その後、蘇我氏は越前国〔福井県〕坂井郡に移住したが、物部王朝に協力したので、三国国造家に任命された。
その他の親族も、北陸地方に次々に移住した。
『旧事本紀』「国造本紀」に、蘇我氏の一族が記録されている。
それによると、蘇我宿祢石河の分家・蘇我若子の子孫・シワノマサル〔志波勝〕は、加賀国〔石川県〕江沼郡に移り、江沼国造になった。
越中国〔富山県〕射水(いみず)郡の伊弥頭(いみず)国造も、蘇我家の親族であった。
武内宿祢の孫のオオカワト〔大河音〕宿祢は、伊身頭(いみず)国造に任命されている。
近畿地方で大君家や葛城氏が大型の古墳を築いたので、北陸の蘇我家の親族も大きな古墳を造るようになった。
その中でも大きいのが、九頭竜川中流の北方にある手繰(てぐり)ケ城山古墳と六呂瀬山(ろくろせやま)古墳である。
六呂瀬山1号墳は、全長140mにもおよぶ。
これらは、三国国造家・蘇我家の墓であった。
六呂瀬山1号墳〔福井県坂井市〕
武内宿祢は、旧東出雲王家・富家から奥方を迎えた。
その後、北陸の蘇我家も富家から嫁や養子を迎えたので、富家との同族意識が強かった。
後に富家の次男が、蘇我家に養子入り、その後中央に招かれ継体大君となった。
その継体王朝からは、現在の天皇家につながっている。
武内宿祢は紀国造家出身であったので、その子孫の活躍により、紀国造の祀った日前(ひのくま)神宮〔和歌山市〕も重要な社とされた。
『日本書紀』の持統天皇四年〔690年〕には、藤原京に遷都するに当り、伊勢、大和、住吉、紀伊〔日前〕の4箇所の大神に報告したことが書かれている。
このことは日前神宮が、皇祖神を祀る社の一つと認識されていたことを示している。
『令集解(りょうのしゅうげ)』によれば、相嘗祭(あいなめさい)〔新嘗祭に先立って行われる祭り〕の新穀の奉幣(ほうへい)社は、大和国、摂津国、河内国、紀伊国の15社に限定されており、紀伊国が重要視されていたことがわかる。
また全国の国造の中で、出雲国造と紀国造の二家のみは特別扱いされていた。
出雲国造は、代替り毎に朝廷に神賀詞(かむよごと)を奏上した。
紀国造も、新任の国造が朝廷に出仕し、代替わりの許可を得た。
律令制度の導入により国造制は廃止となったが、出雲と紀伊の二国のみは名誉職として残され、明治時代に廃止されるまで続いた。
さぼ