千葉の石仏~小櫃川周辺山王系庚申塔 | いつもお腹ペコペコランナー
木更津・君津・袖ヶ浦が入り組む、小櫃川周辺へ走りに行きました。木更津と袖ヶ浦の石仏を巡る
 
庚申塔といえば青面金剛像ですが、初めからこの形式だったわけではないそうです。室町時代に、青石板碑に阿弥陀三尊などの種子を刻んだ物が作られるようになり、関東においては庚申信仰と山王信仰の融合によって山王二十一仏の種子を刻んだものも造立されます。山の神の使獣が猿であることから、次第に庚申塔に猿が刻まれるようになりました。承応以降、三尸を駆除してくれるという青面金剛像を主尊として刻むようになり、元禄から安永頃には非常にたくさん作られました。その後、寛政頃からは文字塔に変わっていったようです。
 
今回訪れた木更津は、江戸との海上交通の拠点として、江戸時代に大変栄え、小櫃川も重要な流通路だったそうです。このため東京湾岸部で流行った山王庚申信仰が伝わり、また、大きな石も運びこむことができて、立派な庚申塔が建てられたのであろうと想像します。それはそれはすばらしい庚申塔たちでした。
 
 
木更津市茅野 山王社。寛文9年(1669年)の笠付形庚申塔。祠に鎮座しており、とても綺麗に保存されています。山王系の庚申塔です。
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お米とお餅が奉納されていました。
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木更津市下内橋の諏訪神社。寛文10年(1670年)。平成2年発行の本によると青面金剛像の庚申塔としては、安房・上総地方で最古だそうです。神社の行事のため集まっていた地元の方が「ここらはみんな武田菱だよ」と声をかけてこられました。この辺りは甲斐武田氏の流れを汲む武田信高が活躍した歴史があるそうです。
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木更津市大稲の熊野神社。延宝8年(1680年)の笠付庚申塔。これも、「奉造立山王権現」の文字が刻まれています。
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江戸中期のものより、青面金剛像が繊細な印象です。
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木更津市下郡 河原墓地。寛文8年(1668年)の板碑型庚申塔。お猿がお行儀よく並んでいます。
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木更津市下郡の生田神社。寛文9年(1669年)の笠付型の山王系庚申塔。
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同じく生田神社の庚申塔。年代不明。左下にいるのはなんでしょう。子供が真似しているみたい。
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袖ヶ浦市三箇の光福寺。立派な笠付庚申塔が並んでいます。美しい。右のものは天和3年(1683年)。
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左の庚申塔は正徳6年(1716年)。2童子も従え、芸術的な作品です。
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ショケラがカエルのように張り付いています。
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袖ヶ浦市上宮田八幡。神社。高さ220センチもある大きな板碑型の庚申塔です。寛文2年(1662年)。「建立山王権現」の文字が読めました。
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額のシワがかわいい。
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袖ケ浦市横田、熊野神社。元禄15年(1702年)の庚申塔。ショケラがだらりん。
 
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その横には天和2年(1682年)の笠付だった、庚申塔。笠のついていたところに種子のようなものが彫られています。青面金剛の横には「奉為造立山王権現」と刻まれています。
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袖ヶ浦市横田の善福寺墓地。これまた、巨大。2m以上の大きさです。寛文8年(1668年)の庚申塔。前掲の諏訪神社のものより古い、青面金剛像の庚申塔ということになります。童子が、官女みたいです。
 
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千葉県は湯殿山信仰が昔から盛んです。今回も行人塚が見られました。
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木更津市大稲の廃寺跡にも、美しい湯殿山供養塔がありました。
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種子が彫られています。
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木更津市下郡の川原墓地にも行人塚がありました。
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木更津市大稲の廃寺跡には六地蔵石幢も。正徳5年(1715年)。南くるり2里八丁と書かれており、道標を兼ねていたようです。
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木更津市下郡の善鐘寺。ここにも道標を兼ねた六地蔵石幢。「西たかくら観音」
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日差しがまぶしそうです。
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房総の馬乗り馬頭観音の中でも十指に入る逸品。木更津市下郡の文政5年(1822年)の馬頭観音。波の上を走っているようです。
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富士講も盛んだったようです。袖ヶ浦市横田の横田神社。
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大変盛りだくさんでした。知れば知るほど興味の深まる庚申塔です
 
参考「日本石仏辞典」「日本の石仏 季刊第5号」「石仏地図手帖 千葉編」「房総の馬乗り馬頭観音」
 
 
 
 
 
            春近し歯も嬉しげにウルイ噛む