おはようございます☀
先週末開催されたアジアフォーカシング国際会議
の感覚がまだ私の中に残っている。
その余韻が消えないうちに、今日もフォーカシングをゲシュタルト療法へ統合することの有効性の4つ目について書いてみたい。
それは、
"クライエントの繊細で微細な感覚をセラピストが感じられるようになる。"
ということだ。
もし私がゲシュタルト療法だけを学び続けていたとしたら、私の今の身体の感覚はなかった。断言できる。それはフォーカシングから繊細で微細な
感覚を私は手にすることができたからだ。
今の身体の感覚とは、身体の感覚としてクライエントに起こっていることを私の身体が理解しているという感覚である。
私が心理療法を学び始めた時、私自身には繊細で微細な感覚はこれっぽっちもなかった。
それが故に、フォーカシングから繊細さと微細さを手にし、ゲシュタルト療法から大胆さと己の芯を手にしたように感じる。
もちろん、ゲシュタルト療法も繊細な部分はある。私は2つとも学んでいるから思うのだが、ゲシュタルト療法における繊細さはフォーカシングでのそれには勝てない気がする。
あくまで、私のこれまでの体験からの私見であるが...
それはなぜか...
ゲシュタルト療法には気づきの3つの領域がある。
外部、思考、内部であるが、この内部の気づきは感情への気づきが多いように感じる。それは既に概念化された感覚であり、内側のその感覚へとアプローチすることが繊細さと言うなら違うような気がする。
フォーカシングでは感情へはダイレクトにアプローチすることはない。まだ概念化されていないフェルトセンス(意味ある感覚)へとダイレクトにアプローチする。
このフェルトセンスは身体感覚として、"あるかないかわからない微かなもの"であり、このフェルトセンスを取り扱うが故の繊細さなのだと思う。
繊細さと言う面で、この違いは大きい。
既にフォーカシングでは感情という表面的なものの奥深くにある感覚へとアプローチしているのだから...
繊細さということだけで、ゲシュタルト療法とフォーカシングを比べたなら、フォーカシングが優っている。
フォーカシングを学ぶということは、私自身が繊細になっていくプロセスである。
その繊細な感覚を持った私がセラピストとしてクライエントに向き合うなら、クライエントの繊細な感覚を理解することは容易であるということは誰の目にも明らかである。
そして、セラピストはクライエントのその繊細で微細な感覚を含めて、クライエントが体験している世界を追体験する必要がある。
これからもゲシュタルト療法へフォーカシングを統合する試みを続けていきたいと思う。
いつか、フォーカシング指向ゲシュタルト療法の完成版をお見せしたい!