2歩進んで3歩下がって6歩進む

2歩進んで3歩下がって6歩進む

つれずれなるままにもっちゃりと

とにかく。更新することって大切だなぁっておもいました。
うん。
森良太です。よろしく

「メジャーデビューがなんぼのもんやねん。お前、売れとん?」
18歳の森少年がいいそうな言葉である。
29歳の俺はなんて答えたらいいかわからない。
「いや、だから日本でてっぺん取ってるん?結果出してるん?」
18歳の森少年は続ける。

少年よ、言っておくが、貴様は29歳でも音楽を続けている。
たくさんの仲間が音楽をやめていく。仲間たちの心に灯したその炎が徐々に弱くなっていく様を見ながら何もできない。
いろんなことを諦めるし、いろんなことを知る。
流行、政治、戦略、いろんな要素が絡み合って一つの出来事が作られてゆくことを知る。
いい曲書いてりゃ、いいライブしてれば。そんなことだけで生きていけるほど単純な世界じゃないぜ。
なんて思う時期もある。多分、26歳くらいで思うんじゃないかなそれは。思うけど、お前はそれを認めない。
知るけど、それを認めない。頑固に、心では薄々そうかもしれないなと思いながらも口先では意地を張って
音楽に対する純粋な気持ちを守ろうとする。嘘をついてしまうみたいで恐ろしいからだ。
いい曲書かなきゃ、いいライブしなきゃと思いすぎる。結果ものすごい空回りをし続けることになる。
でもいつもメンバーはそんなお前にわざわざ何をいうわけでもなくちゃんと付いてきてくれる。
スタッフはお前のめんどくささもうまくかわしながちゃんと色々考えてくれる。
愛想尽かさずに純粋にお前から出てくるインスピレーションと楽曲を信じてくれる客もちゃんといる。
から、心配よりも感謝をしろ。
才能なんてものは幻想だ。そんなものを持っているという自負はいらない。
ただ、曲を作ってライブをして一生懸命それだけやってればいい。でないとお前は怠ける。
そこに見える伸び代を人が才能と呼んでくれるだけだ。
幸いいろんな人が応援してくれる。
それはお前がすごいやつだからなのではなくて、お前が人間らしく生きるからだ。
誰とも駆け引きするな。何とも駆け引きするな。
音楽は手段ではない。
音楽は目的だ。
ステージに立って歌うこと。そのために生きろ。
心を燃やせ。しっかり燃やせ。
誰かのためになんて思い上がった気持ちで曲を作るな。そんな気持ちで歌うな。
真に透明な心で、そこに作為が生まれてしまったのならそれさえも隠さずに
ただありのままであれ。
そこにある。ということを分かる。
それが信じる。ということだ。
そうあるべきだ。ということをそうあるように思う。
それは信じるということではない。ただの願望だ。
メジャーデビューを発表した時、お前らのお客さんはすごく喜んでくれる。
そして、期待に応えないと。とすごくもがく。
だけど、期待というのは信じるということと同じく
何かでっかいことをやるとかそういうことじゃない。
信じてるってことを教えてくれてるだけだ。
だからもがかなくてもいい。
ちゃんと、音楽を目的に据えて歌い続ければいい。
お前らのお客さんは
お前らに「期」がくることをわかっている。信じている。
だから、いい曲を書こうと、いいライブをしようともがけばいいお前らは。

そんな気持ちで、今の俺は音楽できてるんだよ。
すごくない?少年。
メジャーデビューできてよかったね少年。

 

まるでなんの考えもなく訥々と話し出したように日々を紡いでいると、その途中で大切な何かを思い出して我にかえる。

そして「今、生きているんだなぁ。」って実感が湧いていたことを知覚する。

生きる実感ってのは首根っこ掴まれて「お前さ、生きてるんだからもっと感謝しろや。」

って無理やりに心に首を縦に振らせるようなことをしなくたってもともとそこにあったかのように「理解る。」ように湧いてくるもんで。で、それがやばいって話で。

俺の場合は決まって生きる実感の隣には「あぁ、なんか死にてぇな」って実感もある。

「今日晩飯なんだったっけなー。」って思いながら帰る学校の帰り道、あの時はなんでもなかったあの感覚が

今はもう二度とこの心の真ん中に来ることがないと思うと、単純に「帰りたい。」

なんて思ったりする。「帰りてぇな。」くらいの「死にてぇ。」

心がどんどんと鈍くなって、経験による知識が脳みそを満たして隙間を埋めていったとき。

あんなに綺麗だと感じていたものを、綺麗なんだと「理解る。」とき、生きてんだなぁ、と「理解」る時。

廃盤のジグソーパズルのピースを無くしてしまったような取り返しのつかなさが身体中の血液の温度を少しだけ上昇させる時がある。

等速直線運動で感情が運ばれてゆく。

「生きたかった人もいる、今死にゆく最中生きたいと強く願う人もいるんだからそんなこと言うもんじゃない。」

と言うのは正論中の正論だが、生きることの絶対的な正しさがまた死にたい人を苦しめる。

そしてそれを振りかざされることによって逃げ場を失う。

肉体からどうしても魂が抜け出すことを許されない、背中が痒いのに両手を縛られているような感覚。

崖に向かって進んでいく列車に乗って、景色のきれなところで降りたいとただそう思うだけの何気ない動作の延長にそれがあったりする。

死にたいと言う明確な感情ではなく、なんとなく不安。そのなんとなくがずっと気になって仕方がない。

それがなんなのかもわからない苦しみ。

どれも明確にあるわけではない。死にてぇの度合いは違えど、そのどれもが同じ重みを持ってそれぞれにのしかかっているのだ。

美しいものを見たとき、絶望を感じたとき、何も感じれないとき、何かを失ったとき、得たとき。

シュチュエーションは違えど、どれもが悲壮感に満ちている。

そういう感覚が、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。

「死にたい死にたい言ってる奴は死なない。本当に死ぬ奴は何も言わずに云々」

だとか

「責任感が強くて、決断力がある人が云々。」

聞くたびに

「死にたい死にたいって言うけど全然死ねないし私はなんて無責任な軽率な人間なんだろう。」

「死にたいって全然言えないどうしても。みんな言うこと、なんとなくわかるから。」

って考えてしまう繊細だったり優しいやつだったりの気持ちがまた数センチ沈んでいくのをなんとなく感じる。

メンヘラの一言で雑に片付けてしまえるし、ほんとそのメンヘラって言いたがる人たちの思ってる

「いや、気にしすぎなんだよ」とか「そのうち忘れるよ」とかもめっちゃ正しいと思う。実際そういうこともあるし。

でも人間、全員違うんだから、「こういう行動を取る奴はこう言う傾向があります。」なんて言い切れたもんじゃない。

誰にだって、どんな感情がいつやってくるかわかったもんじゃない。

ふと、思うことなのかもしれないし

確固たる決意で実行されることなのかもしれない。

それはほんと、わかんね。

どう言う苦しみが、幸せが、それぞれの上にあるのかはわかんない。

こうやって文章を書いたり、歌を歌ったり、音楽を作ったりしているけれど

それが、目につく範囲の人間にどんな影響を与えたり、なんてそんなものすべてをコントロールできるわけではない。

一度吐いた言葉は誰かにとっては刺青のようにずっと心に刻まれる言葉なのかもしれないし

バイアスのかかってる人間には、100回言っても届かない言葉だってある。

友だちが死んだり、家族が死んだりするたびに思う。

ただ、普通に思う。

「もいっかい一緒に飯食いたかったな。」とか

「飲みに行こって言ってたのにな。」とか

わざわざ口に出した途端、死んんだ誰かを餌にして生きてる誰かに対するアピールみたいに感じてしまってなかなか言えないこともたくさんあるけど

ただ、シンプルに寂しいな、会いたかったな。って思う。そして、向こうもそう思ってると思う。もしかしたらこっちよりも強く思ってたのかもしんない。

 

ほんとは、明確には

なーんにも言いたくない。めんどいから。

言葉になって形になると、必ず誰かにとっての納得になり、誰かにとっての反論になる。

それが生きると言うことで。

とてもとてもそんな強く生きていくのは骨が折れる。

心にもないことを言って誤解されようとしたり、正しすぎることを言ってわかってもらおうとする。

矛盾が大好物な人間や、正しさを教えたがる人、見たくないものは見なくていいよ、って見ざるを得なくなった時に耐性がなくてマジで受け入れ方わかんなくなってしまってる人。

書き出せばきりがないけれど

生き辛さの前に立ちはだかるいろんな人の別になんでもない言動や所作に傷ついたりする豆腐メンタルな我々。そしてそれを反撃の材料にしている愚かな自分。

もう全てのことがめんどくせぇだるいまじでうるせぇロケンローポップギャング。

で、そんな私が最後に一言。

続きましての言葉聞いていただきましょう、

2019年5月、森良太の言葉です。






 

 

「生きろ。」






 

 

 

人の揚げ足を人が取りすぎたが為に誰も足を揚げて歩けなくなった20XX年

日本の主要交通機関は電車やバスではなく動く歩道になっていたのだった。

自らの意思で移動することができなくなってしまった人々は、

国家にとっては管理のしやすい都合のいい道具と成り下がってしまったのである。

 

と、なりかねない。2019年の皆さんなら未来も変えられるはず!

今日も元気ですかー!

今日も生きにくいですかー!

サラコナーですかー!

 

というわけで、ツアー福岡編終了しました。

2本目ということもあって、だんだんわかってきたぞこのツアーの持ってる性格が。

なるほどなと。

いろんなインタビューで2周目の初期衝動とかいうてるけど

まさしくなんかそんな感じするな。

というか原点回帰感あるな。

原点回帰とかって言葉使い古されすぎてて嫌いやけど、そう思うもんは認めざるを得ない。

 

もっともっと、まっしろな気持ちで、浮かんだ言葉と浮かんだ感情でライブするぜ。

 

それにしても、みんないい顔してましたなぁ昨日。

このツアーがますます楽しみになりました。

残すところあと5本か。

もう5本しかないのかー。

いろんなみんなに見て欲しいな。

 

 

なんかさー。なんで生きてるんやっけ。とか、私って必要な存在なのかな。とか

思ったりするやん。

そりゃ生きてるからさ。

でもライブにきてくれてる人たちの心くらいは音楽で揺らせたらなぁと思うよ

何を感じるかは人それぞれやろうけども

せめてね、一生懸命歌うしかないから、そして点じゃなく線で、バンド人生を見せていきたいとも思うし。

 

生きたくても生きれなかった人がいるのに、死にたいなんていうもんじゃない。

とかって理屈はすげぇわかるけど、な。圧倒的な正論の前で何も言えなくなるだけで、気持ちがそれで軽くなるかって言われたらそれは微妙やんな。

死にたい。って思うときは思うんよなぁ。そりゃ、色々あって思うんよ。そういう風に。

春のせいかも知らんし、ホルモンバランス狂ってるんかも知らんし、ただ人生舐めてるだけなんかも知らんし、脳の疾患かも知らんし、単純に嫌なことあったんかも知らんし。

俺だってそう、きっとみんなあるでしょそんな気持ち。

誰かが悲しむからそんなことはいうな。

じゃなくて、大声で言えばいいよ。叫べばいい。

だるいめんどくさい死にたいどうでもいい嫌い。

感情なんやから仕方ない。

ギャンギャン泣けばいいし、もういやーって言えばいい。仕事だるい人間関係だるい生きてるのだるい私なんか俺なんか。なんでもいい。

思えばいいと思うよ。

それくらいいいやんなぁ。そう言いながらも生きてるんやし、えらいってそれだけで。

でも、ずっとそうじゃメリハリがないからね。ほんとに死んでしまうよ。

ライブ来た時とか俺たちの音楽に触れてるときぐらいは無理やり笑わんでもええと思うねん。

無理やりサビで手を上げなくてもいいし、好きにして。

でも、俺もわがままいうてみんなに手拍子して欲しい時は欲しがるし、手あげて欲しい時は欲しがるよ。

応えて気持ちいかったら応えてくれたらいいしそういうの苦手なんすよ。

って人はそれでもいいし。なーんでもいい。好きにしてーーーー。

マジで我々の機嫌とかフロアの空気とかより、自分の心優先してぇー。

でもそういうの優先した方が安心できる人はそうしてぇーーー。

笑いたかったら笑って。泣きたかったら泣いて。鼻水ズビズビしてても聞こえへんくらいには爆音やし。

盛り上がりたかったら盛り上がればいいねん。一人でも。踊りたかったら踊ればいい。

それが伝播していってフロアが一つになるんかも知らんし、ならんのかも知らん。

なんかめっちゃ気になって曲集中できないんですけど、って思う人もおるかも知らんし

あの人楽しそうで素敵と思う人もおるかも知らん。

心の中で多数決とってもたら、大事な瞬間逃すかも。

自分が正しいと思うようにあればいい。

何かするのも行動。何もしないのもしないという行動よ。

そんなことよりも、わざわざ好きな音楽聴きにきた時くらいは心の制約を、鍵を一旦開けて換気してね。

何も決めんでいいよ。

私は、俺は、こういう人間やから。

とか決めんくていいよ。ブレて行こうぜ。キャラなんか。

探しに行こうぜ、しっくりくるやつ。

 

でも、よーよー読んだら今書いたこと全部、めっちゃ生きてるやん?

めっちゃ生きたいやつやん?

言葉なんか額面通りに捉えるもんじゃないってのはそういうことやん?

死にたい、とボソッと呟き、思うその心はきっとものすごく生きたいんやと思う。

寂しさや悲しさが燃え盛るその瞬間人の心は「生きたい」という気持ちにさえ焼かれて燃え尽きてしまうんやとおもう。

心は可燃物やからな。燃やしたい時以外は火気厳禁やな。

でも、燃やし尽くした後に灰になったらそれを栄養に芽が出てくる。よ。きっと。新しい気持ちが芽生えるんよ。

だからちゃんと感じるんだー。自分の痛みも喜びも。燃やし尽くして、また土地を肥やして。

繰り返しよ。

 

言葉にすると自分でも、本当の気持ちが見えなくなる時があるよ。

だから音楽があるよね。だから芸術があるよね。

 

なんせ、自分が自分であれる場所。

それがブライアンザサンのライブやで。

春がやってくる。

なんだか、こういう時期になると別になんでもないぼーっと過ごした過去の時間について考えたりしてしまう。

例えば、島根のとあるライブハウスに出演した時のこと。

そのライブハウスは川沿いにあって、階段に控えの機材を置いておくようになっていた。

ライブハウスを出ると少し歩いたところから川を眺めることができた。

とても晴れているいい日だった。

ステージ袖の階段を登って一番上にはガラスの扉があって、その扉は常時施錠されていて開かない。

階段に自分のエフェクターボードを置く時に、夕陽に機材が照らされている様子を見て

普段感じないような美しさを感じた。

その時、生きているということが少しわかったような気がした。

そんな、誰かにとってはなんでもない一つの動作が自分の人生において大切な一コマになったりするんだから

不思議なもんである。

 

ツアーが始まった。

2019年、ブライアンザサンはMEMEというアルバムをリリースしたらしい。

ボーカルの人は、毎度のことながら素晴らしいアルバムができたということ、そして

それが今までとどう違うか、これからの自分たちや今までの自分たちからみてこのアルバムが

どういうアルバムになるのか。

みたいなことを散々インタビューで話しまくって、結局自分でもよくわからなくなったりしながら

言葉にすればするほど、その作品の纏っていた最初の雰囲気を見失いそうになりながら

それでも、スタジオでアルバムの曲を演奏するたびにフラッシュバックする曲たちの持つ情景が色褪せないことに安心しながら

ツアーまでの日々を過ごした。

 

 

大切な言葉や思いなんていうものは、本来使用回数が決まっているもんなのである。

愛してるって思ってるなら言えるうちに言った方がいいよ。

と言った類のものすごくポジティブでアメリカンな考え方がないわけでもないが

本来の性分としては、そんな小っ恥ずかしいこと真顔で言えるか。というのが正直なところである。

だから歌っているのだ。

伝わるかどうかとかそんな次元の話じゃなくて、だから歌って、いた、のだ。

もう28歳にもなると、心の扉の外側で起きる脳みそによる社会的活動にもわざわざ神経過敏になることなく平穏に過ごすことができる。

もっとわかりやすく言おうか、「違和感のあることも理解できてしまう。」ということだ。

そして少々引きこもり気味な心はしばらく会わないうちにメタボ気味で不健康そうな風貌に変わってしまっていた。

諦めやめんどくさいといった「死」に近づく感覚感情をそれから遠ざけるために心というものは機能している。

それは本能と限りなく親和性の高いシステムなのかもしれない。

その心が完全に「めんどうだからもういいじゃん。」を推奨しだして脳みそが「合理的な選択だお」というハンコを押して正当化する。

そうこうしているうちに「なんでもないただのなにか」の出来上がり、チーン。である。レンジでほかほかである。

濁流になって押し寄せる「知りたくもない情報」や「盛りすぎて訳のわからない情報」が常に心の扉の前にファストフードの山の如く並べられて

完全に生活習慣病を患った心。

「こりゃもうお手上げでやんす」ともう一人の自分が言っていたように思う。

 

まぁ、そんな状況でも日々は進んでいくのである。歳も取れば腹も減る。

それが人間である。

そんな折にじいちゃんが死んだ。

俺は幼き日じいちゃんとかばあちゃんが死んだら本当にいやだいやすぎる。という理由で逆ギレして訳のわからない状況を生み出すような子供だった。

じいちゃんはものすごく変わった人だった。

毎日ギターを弾いて歌ってはそれを録音して夜寝る時に聴きながら寝るという自家発電的な生活をしつつ

60歳から孫と遊ぶためにという理由で始めたローラースケートがものすごくしっくりきて、成人して孫が遊ばなくなっても一人で公園でローラースケートするような人だった。

そんな陽気な爺さんだから、いつも周りには子供が群がっていてちょっとした名物みたいになっていた。

ちなみに孫というのは俺のことである。

そんな爺さんが死んだ。

死ぬ前日「もう帰る。」と言いだして、どこに帰るか問うと昔暮らしていた町の名前を言った。

そして死ぬ間際にはハッと目を覚まして「お前らどうしたんや、じいは明日には復活してるから大丈夫や。」と言ったらしい。

もう大人だから意味がわかる。死ぬということは物理的にもう会えなくなる。ということだ。

葬式が終わって、灰になった爺さんの骨は丈夫すぎて全然そのままの形だった。めっちゃ丈夫だったのである。

 

こればっかりは「めんどうだからもういいじゃん」と心も言わなかった。

そうやってできたのが「死」という曲だ。

こんなに丈夫で陽気でアホそうに見えてロマンチックな爺さんの血が自分に流れてると思うだけで笑える。

そして、爺さんからたくさんのことを学んだ。

MEMEというタイトルもそういう経緯があってのことである。

 

大切な言葉や思いなんていうものは、本来使用回数が決まっているもんなのである。

そんな俺は爺さんにありがとうと伝えることができなかった。

その日がそんなに早く来ると思っていなかったからだ。

小手先、口先ではなく本当に思ってれば思ってるほど、そういう言葉ってのは重たく心の中にずっしりと錨を下ろしているもんなのである。

だから、どこにも流れていかないし、多分死んでも忘れないんだろうそういう気持ちは。

だからもっとありがとうって言おうね愛してるって言おうね。とか言いたいわけじゃないのである。し、

何がいいとか悪いとか後悔しててだからどうで、とかいう話がしたいわけではない。ちなみに、思いを打ち明けなかったことに後悔はしていない。

 

そういうことがあって、曲を書いた。

ということ。

その出来事があって、自分の中で何かが変わったのだ。

ということだけが伝わればいい。

 

何か言っているようで、何も言っていないのが言葉である。

何も言っていないようで、何か言っているのが芸術(もちろんそこに音楽も含んで)なのである。

 

ライブをして、音楽を鳴らしていろんな人に会いにゆく。

そうやってみんなが生きていること、自分が生きていることをただ知る。

そういう俺たちの日々の延長が

あなたの何気なくぼーっと思い出す記憶の一部になることができたら

いつの日かそのMEMEがあなたの生命力になることだろう。

 

やっとアルバムが発売になりました。

メジャー3枚目のフルアルバム。

もう聴いてくれてる人もいるかな。発売できてよかったなーと思います。

 

なんか、ずっとジタバタしてたなぁって。

紆余曲折、その都度その都度感じた正解をただひたすら追い求めて生きてきた自分だから

はたから見たら意味がわからないことやブレてるなと見えることもあったかもしれないけども

それでも信じてくれてたスタッフのみんなとか、

俺たちの音楽をただ、好きで聴いてくれているみんなの存在が何よりも力になっていました。

なんか、ほんっともう普通すぎてあれなんやけど

音楽のいろんな楽しみ方を知ったな。

心から発せられる音をそのまんま信じて鳴らすことだとか、

脳みそがこれってめっちゃよくない?って言っていることを逆に心に染み込ませるべく演奏することだとか

何がやりたくて何がやりたくなくてみたいな次元はもう超えた気がする。

人間200パーセントなんの疑いもなくしてることって鼓動刻むことと呼吸くらいじゃない?

時に、これでいいんだろうか、、、?って思いながら進まなきゃいけないこともあって

でも、それを間違いでした、、、って認めることも

いや、これは間違ってなかった。っていうことも

場合によるよほんと。

生きかたなんか先に決めて格好良く生きようなんてこと思わなくなったな。

 

歩いてきた道が人生だし、その都度正しいと思う道を歩いてきた。

時にこれでいいんか、って思うこともあったけど

それがあるから今、ほんとのことがまるっとわかる。

ずっとラッキーパンチで生きてるわけではないから

時々KOされたりしながら、パンチドランカー気味でやってるから

だから、わかるんやん?いろんな人の気持ちが。

で、それがわかりきれてないってことも承知。

 

ただ、俺の心が解けて空気を揺らして波を描く。それが4人分あるのが

ブライアンザサンってバンドの在り方で

どうやって解けよう。なんて考えて解けるもんではない。

毎日、毎時、毎分、毎秒。

その都度その都度全てが違う。

いつだって、自分は自分の素人で、いつだって同じライブは二度とない。

同じ歌も二度と歌えない。

同じ録音も二度とない。

だから生きているし、生きているとはそういうことだ。

 

なんかなんか言ってるようでなんも言ってない文章になっちゃったけど笑

 

みんないつもありがとってこと。

んで、ちゃんと、心の中にあることを音楽にして

誰も見せられないような世界を見せれるように生きるからね。

ということ。を言いたいわけだ。

一緒にこの時代、生きてこーぜ。

迷ってもいいじゃーん。

怖くなっても、大丈夫。

ちゃんと、進んで見せるからさ。

 

俺は自販機のホットミルクティーが大好きである。

甘ったるく、そしてコクのない平面的な味。しかしなぜかいつも飲んでしまう。

そして、これは冬季限定の悦びなのである。

夏の終わり頃、駅のホームなんかで自販機に「あったか~い」の文字を見かけるようになると

ちらっと横目で確認して、白と深い青と金色で描かれているホットミルクティーのパッケージを見つけると

「ああまた今年もこの季節か。」などと嘯いて小銭を投入してしまうのだ。

ものすごく喉が渇いていて、今飲むならスポドリかお茶。

みたいな局面でもいつもホットミルクティーを買ってしまう。

味とかどうこうの話ではなくおそらくこれは糖分の中毒なんだと思う。

 

それは昨日のことである。

数日後に知り合いの結婚パーティーが行われるので出席するためにスーツを探していたのだが

どこを探してもない。

引越しのどさくさに紛れてどこかに行ってしまったのだろうか。

仕方がないのでスーツを買いに行くことにした。

街に出て、色々とついでの用事なんかもすませてスーツも無事に手に入れることができた

一生懸命目的に向かって何かしているとき、人は空腹や尿意や眠たさを忘れる。

荷物を両手に持って、帰り道ふっと気を抜いたとき

ものすごく喉が渇いていることに気づいた。

こんなときなぜか飲みたくなるのがホットミルクティーなのである。

日も暮れて少し寒くなってきて、ホットミルクティーを飲むのには丁度すぎるシチュエーションである。

こうなったらホットミルクティーと冷たいお茶をかわるがわる飲んで

温度の差による味覚とはまた違った刺激を胃に与えたくなる。

2本もドリンクを買うなんて、贅沢の極みである。

小さい子供が死ぬ気で泣きわめいても買ってもらえないのが自販機のジュースである。

そんな子供を横目にみながら これが大人の特権さ。とばかりに立て続けにコインを自販機に投入して2本のドリンクを買うところまで妄想してみる。

帰ったら楽曲制作が待ち構えているので、その前に少しリラックスして気持ちを整えよう。

家の下に自販機がある。

真っ白の自販機で、偽物みたいなラインナップのドリンクが並んでいる自販機。

そのミルクティはデザインの書体もあいまって凄まじい胡散臭さを纏っているのだが

その胡散臭さ通りの平面的な上っ面だけの甘ったるさがまたたまらないのである。

 

やっとのことで自宅下の自販機までたどり着く。

手元に700円小銭がある。

ミルクティは100円だが、ひとまずお茶から買おう。

冷たいものが緩くなるより、温かいものが冷める方がだるい。

ほんの数十秒の差。そんなことは体感ではわからないくらいの差だろうが

気持ち的に先にお茶を買いたくて、お茶は160円なので200円投入した。

 

・・・

 

うんともすんとも言わない。

コインが自販機のコイン溜めに落ちる音すらしない。

あれ。おかしいな。

お釣りのレバーを数回かしゃかしゃしてみるも

うんともすんとも言わない。

実は、前回も同じことがあった。

100円入れてミルクティを買おうとしたら、そのまま出てこなかったのである。

何かこう調子が悪いのかな。と思ってその時は普通にまあいっか。と家に帰ったのだった。

しかし、その後普通に買えるようになっていたので、自販機を管理している会社もしっかりと仕事をしていて偉いなぁ。

なんて思っていたのだ。

そう、だから今回は、自販機の管理会社がしっかりと調子の悪い自販機もメンテナンスしてくれていると思っていたので

ああ。これは自販機の中に10円が足りなくて200円ではどうやってもお釣りを出せないから

自販機自身もどうすればいいのかわからなくなっているのかもしれないな。

と。思って納得しようとした。

よく考えてみると絶対にそんなことはないのは今だから分かる。

自販機もいくらマニュアル人間(?)とはいえ、そのまま200円返せばいいだけなのだから。

 

しかし、俺はもうその時点でホットミルクティージャンキーなのである。

あの平面的な味が、甘さが。今すぐ欲しいのである。

残りは500円玉である。

いやさすがに400円のお釣りならでるだろう。

だってさっき200円入れたし400円のお釣りが出せない自販機なんかこの世にないだろう。50円玉も使っていいんだから。

100円4枚でもいいし、100円2枚で50円4枚でもいい。それくらいのお釣りはあるはずだ。

てめぇの維持費いくらかかってるんだ。それくらいのお釣り出せるだろうが。

 

と、500円を投入した。

 

 

うんともすんとも言わない。

 

 

普段から俺はなるべく自分に起こる災難は受け入れるように努めている。

例えば、通販で買った商品が不良品でも、まず問い合わせたりしない。

楽器屋さんで買ったクリップチューナーが折れていた時も、翌日新品を同じ店に普通に買いに行ったし

買ってきたケーキにハエが入っていた時も黙って食べるのをやめただけだし

コンビニの店員さんがハーゲンダッツを買ったのに透明のプラスティックのスプーンを入れてきた時も

できれば、ハーゲンダッツ用のスプーンが欲しいということをものすごく丁寧に伝えてもらう。

そういう人間である。

 

しかし、正直今回の件に関しては

家の下の自販機である。

二度あることは三度ある。と昔の人は言った。

 

再発は防止したい。

 

苦渋の決断である。

運命は受け入れたい。それが俺の生きる上での方針なのだ。

しかし、、、

 

 

自販機に書いてある番号に電話をした。

時間外ということで、オペレーターのアナウンスが流れる。

ピーという音の後に自販機の管理番号と名前と要件を吹き込め。

と。

ピー、と鳴って、テンパりながら

自販機の管理番号を告げ、金が出てこない旨を伝えた。

 

 

喉は乾いたまま。

家に帰って湯を沸かしてコーヒーを淹れた。

苦い。

喉が余計に乾く。

やはり、ミルクティだけでも飲みたい。

テーブルの上の小銭入れの100円を持って家を出て、隣の自販機まで向かった。

ホットミルクティー、ちゃんと置いてある。

100円を入れた。

 

うんともすんとも言わない。

 

まさか、隣の自販機までそんなことになっているとは、、、

もうこの国にまともな自販機はないのかもしれない、、、

いや、まさかこの国の自販機の小銭入れの向こうは時々時空が歪んでブラックホールになっているのかもしれない。

そのあまりに強大な重力により、100円の質量は限りなく重くなりものすごく気の遠い時間をか

 

なんてそんなことあるわけが

 

ない。

 

ない、がある。のである。

 

やる気が完全に削がれてしまったので

その日は作業をやめて

西部のガンマンが決闘で撃ちまくる映画をみて寝た。

 

 

翌朝、知らない番号から電話があって

出たら自販機のおっちゃんだった。

申し訳ありませんでした。返金しますので、という。

そして、小銭の投入口に紙が入れられていたということと

週末になるとこういういたずらが増えるんです。

とものすごく申し訳なさそうに言っていた。

おっちゃんは悪くない。どうして俺が謝らないといけないんだ。

と俺がおっちゃんなら思う。

そして、いくら投入されましたか?と聞かれて700円。

というのもものすごくバカなのがバレそうで嫌だったので

返金は結構です。ご丁寧にありがとうございます。

と言って電話を切った。

正直、100円とかを返金してくれと言われたら

そのために出向くとか郵送するとか100円以上金のかかるアクションが発生するわけで

そういう色々を考えると

死ぬほど不毛ないたずらだなと思った。

どうかせめて犯人は小学生とかのガキであって欲しいと思った。

いい歳した大人が自販機の投入口の大きさに紙を折りたたむとか切るとかして人目を気にしながら

投入口に紙を入れるなんて

そんなことに毎週末、リスクを負いながら一生懸命になってたりしませんように、、、

 

そして、マジで犯人見つけたら

ミルクティ買わせる。

7本な。7本。

いや、前回の分と、後で買いに行った分合わせて9本な。

あったかーいで飲みたいから

俺が飲みたいときに呼び出すからな。

あけすぎましておめでとうございます。



あけすぎましたけども

おめでとうございます。

2019年は何やらいい一年になりそうな気がひしひしとしております。

なぜかはわかりません。


というのも。

なんか、ぼんやりとずーっとこういう日々が続くんだろうな。

って今までは思ってたのかもしれないです。

今は全然そうは思ってなくて

今、ライブに足を運んでくれるお客さんだって

周りにいるメンバーだって、スタッフだって

奇跡的なバランスで成り立っていて一緒に時間を過ごすことができるけれども

いつもいつまでもそうではないんだな

ということをよく思うんです。最近。

なんででしょうね。

なくなる。終わる。という意識からくる感情ではなくって

なんか、そう思うんです。

音だってそう。二度と同じバランスで鳴ることはないし同じライブは二回とないですから

なんか、そう思うと一回一回のライブも、レコーディングも

もっというと、スタジオの練習も。

毎回毎回違って面白いし。音楽をならせることが今はとても楽しい。

ありがてぇな。と思うから

だからこそ、全力で燃えたいですね毎回ね。


遠い道のりをてくてくと歩いて、今という日々を振り返った時

あー、これが幸せということか。

と思えるような日々がここにあると思うんだな。

だから、また同じ明日があるんだろうな、なんてことを思わず

今をちゃんと美味しく召し上がるという気持ち。

そういう気持ちだという気持ち。

です。

早くライブをしに行きたい。みんなの町に。

みんなの町で音を鳴らしてみんなの心を元気にしたいなと思っていますよ。


そのためにできることを全力でやる!


ぜー!


今年はそんな一年になります。から、楽しみで仕方ないぜ。





Brian the Sunというバンドのことを好きでいてくれている人はLoneというバンドの名前を節目節目で見かけると思う。

Loneって誰なの?Brian the Sunと音楽性は似ているの?

そう思って調べて、彼らの音にたどり着いた人たちには、俺たちとLoneの繋がりがどうしてこうも強いのかわからない人もいることだろうと思う。


そもそも、16歳の頃から共にこの日本のライブハウスシーンで音楽を続けてきたライバルであるということもあるのだけども

16歳から、というほどではないにしてもそういうバンドは他にもいる。

つまり、我々は特別Loneのことが好きなのだ。

そして、彼らとライブをするときのbrian the sunはいつも何かが違う。気がする。


彼らのようなバンドは

天気や政治や株価や流行に影響を受けることが少ない。

ただ、ひたすらに同じ曲を何百回何千回と繰り返し演奏しても

まださらに良くなるにはどうしたらいいんだろう?と考え続ける。

音楽はそうあってほしいと俺は思う。


正直、何がいいのか一言で教えてよ。と言われると言葉が見つからない。

情念?みたいなものをひしひしと感じるが、それだけが魅力なのかと言われると

そうとも言い切れないところがある。

なんとなく生活のために音楽を身に纏っているんではなく、音楽のために生活を踏み砕いているような生き方をしている彼らが

なんとなくで音を鳴らすわけがない。

そういう信頼はなんとなく勝手に持っているところはある。


俺が彼らと出会った16歳の頃、お互いきっとまだ何にでもなれる余白があった。

LoneBrian the Sunもそんなものには目もくれずにずーっと音を鳴らしてきた

ライブハウスで。

音の渦の中で魂をふるいにかけ続けた。

一人の人間として、ではなく4人で初めて成立する世界観。4人がいることで初めて辻褄があう。

それがバンドだ。それがロックバンドなのだ。

誰が欠けても意味が違う。

そういうものがロックバンドだ。

そもそも、若い頃の自分という人間はそういう部分を軽視しがちな人間だったというか

音楽が、曲が最善に輝く形であるべきだという考えを持っている方の人間だった。音楽は人間の力なんかはるか及ばない崇高なものだと思っていた。

自分が歌う必要まで疑問視するようなタイプの人間だった。

Loneは真逆だ。

毛利の声に牛首の詩、竹家の立ち振る舞いから鳴るギターとひろゆきの屈強なビートがないと成立しない音楽だ。人間の力が強い。

俺たちがLoneの曲を演奏しても、理屈を超えることはできないかもしれないが

LoneLoneのメンバーでLoneの曲を演奏すると

理屈の境目を超える瞬間がある。

時間が止まったような、何かがひっくり返ったような感動が心のそこから湧いてくる瞬間があるのだ。

俺は、その瞬間をロックバンドだと呼ぶんだなと

彼らに教えてもらった。


生きるということがそのまま音になるような、そんな人たちのライブをみんなに感じてほしい。

そして、俺も時々思い出さないと。

人間である前に音楽でありたいと思っていたあの頃の気持ちを。


いいライブ?なんてことを約束するのはもうやめよう。

めんどくさい。そういう教科書通りのセリフは。

ただ、鳴らそう。その時の気持ちを。10年前のFire Loopで鳴らしていたあのままの気持ちで。



920日下北沢Garden よろしくです。

手帳に丸、つけといて。

impromptu


油が切れて車輪の軋む自転車を押しながら、淡いカーディガンの君は汚れた袖口を気にしている。

僕らはいつもの場所に向かって歩いている。

この町には大きな川が流れていて(と言ってもたかが知れているが)

その川を横切って一本のローカル線が走っている。

河川敷に座って山側から来た電車が川を渡って町に向かって走っていく姿を眺めながら、ただなんとなく一緒にいるのが僕らの最近のお気に入りの過ごし方だった。

鉄橋を端から端まで見渡せる場所を二人で見つけてからはそこがいつもの場所になった。

春は芽吹き、地面からは青臭いタンポポの香りがする。

ためらいもなく腰を下ろす君のそういうところがとても気持ちいい。

春の隙間、その瞳の青空は珈琲の色に映えて、それでもそれが青だとわかるのは君の目を通して空を見ているからなのだろうか。

ガタンゴトンと間延びした音を響かせて青い電車が画面の左側から流れてくる。

「あの電車の噂知ってる?」と君は続ける。

話によると、この路線には毎日始発の前と終電の後に一本ずつ電車が走っていて、そしてそれはかつてこの町を襲った水害で亡くなった死者の魂を乗せるための電車らしい。

「そんなの運転する運転手さん怖くて嫌だろうね。」とかそんなくだらない想像を話し合いながら、持て余した手と手を結ぶ。

会話のための話題を僕たちは探さない。

いつだって不自然なことはしなかった。

「あ。」

「うん?」

「やっぱなんもない。」


不意にためらいを見せた君のその綻びに全てを悟って

「いいよ。大丈夫。」

と僕はいう。


二人には秘密がある。

それに触れないことが二人の間ではいつの間にか当然になっていった。

そしてそれがしこりになって次第に癌になってゆくのを本当は二人ともわかっている。

世の中には、愛の様に見えることや、優しさの様に見えて実のところは小さな欲望を満たし合っただけの結果だったりすることがよくある。

自分たちの愛情が良性のそれなのか悪性のそれなのか。

そんなことはわからない。


昨夜見た夢はこんな夢だった。

君と二人で、音もなく走る電車の座席に座っている。

周りは家族連れやお年寄りで賑わっているが全員、顔がない。

それでも不思議と怖いという気持ちはなく、むしろ全てを許されたような安心感と君が隣にいる安心感でどこに向かっているかすら

気にならなかったんだった。

途中で君が「私たち、どこに行くんだっけ?」と尋ねる。

僕が答えを探している間に、景色は辺り一面の海の上に変わっていた。

朱色をした橋をくぐって、海の上の線路の両端を屋台が立ち並ぶ道を抜けて着いたのは昔通っていた小学校の正門の前だった。

小学校ではたくさんの子供が遊んでいて、手招きをしている。

とても賑やかなのに、全く音はない。

よく見ると、子供だけじゃなく大人もいてとても楽しそうにしているので、君の手を引いて門をくぐろうとするが

君はそれをとても嫌がって、どうしてもいってはいけない気がすると言う。

「どうしたの?」と声をかけられて振り向くと、去年の冬亡くなったはずの祖母が立っている。

と、そこで目が覚めた。

だから、本当はあの電車の噂を聞いても何も不思議には思わなかった。

その話をしようとしたが、もしもその話をしてしまったら

二人が永遠のようなものを手にしてしまうような気がして、やめた。


しばらくしてまた鈍い青の電車が鉄橋を伝って町に零れていった。

二人の何かが溶けた様な気がした。


そう。

二人が何をどれだけ捧げようが一生永遠を手にすることはないんだと、なんとなくその時神様は決めてしまった。


んだと思う。




君が僕を忘れた日に、青い電車は音も立てず。